第41話 外伝 目醒める刄威虚音
照り返すアスファルトの匂いに、
エンジンオイルの甘い香りが混じっていた。
油とゴムと金属の匂い。
初夏の風が、その全部をまとめて運んでくる。
——”オオミオート”。
一琉はバイクを見せてもらう約束のもと、
日曜の昼下がりに夏奈の実家にやってきた。
「いらっしゃ〜い!
夏菜ぁ〜!あんたの彼氏、バイク見たいんだってぇ!?」
豪快で陽気な声が響く。夏菜の母だ。
Tシャツの裾から覗く筋肉には、元走り屋の歴史がそのまま刻まれている。
「ちちちげーし!!
バイクの話になって、一琉が見てみたいって言ったから連れてきただけだっての!」
「やだステキ! 男の子が単車に興味あるなんて、もう最高じゃない!」
一琉は苦笑しながら、
油染みのついた床に足をそろえた。
「す、すみません。ちょっと興味が出て……あの、触らせてもらえるだけで」
「触るだけぇ?
なーに言ってんの、うちの子らは乗ってナンボよ!」
夏菜の母は布切れで近くのタンクを磨きながら、豪快に笑う。
元走り屋だというその背筋は、いまも現役のように真っ直ぐだった。
◇
「ウルフとかいいんじゃね?」
夏菜が胸を張った。
「2ストで軽いし速ぇし、見た目もシュッとしてるし!
……あたしのガンマの姉妹車みたいなもんだし」
「やめなさい、いきなりそれは“ガチ”すぎるわよ。
旧車オタクの感覚で薦めないの」
母がピシャリと制す。
「最初に乗るならこれなんかどう?扱いやすいし、見た目も悪くないわよ。男の子にも人気あるわ」
指さしたのは、青いフェアリングが涼しげなミドルクラス。
「へぇ〜……」
一琉は素直に頷きつつ、視線は店内を泳ぐ。
黒いロー&ロングの車体に目が止まる。
「あ、これ。なんかアカネさんのに似てるかも」
「ん? ああ、“鬼哭冥夜の単車”か」
夏菜がニヤッとした。
「あれエリミだよ、エリミネーター。
最近新型が出たんだけど、鬼哭冥夜のは初代の輸出仕様!
イッカついよなぁ」
「へえ……名前も強そう」
金属の光が、初夏の陽射しをひとかたまりにして跳ね返していた。
◇
——その時だった。
店のいちばん奥、布のかかった車体が、一琉の視界の隅に引っかかった。
「……なんだろう」
足が勝手に、そこへ向かう。布をそっとめくる。
現れたのは、黒に近い深い紺。太いフレーム。丸目。堂々たる空冷のフィン。
けれど、それ以上に――“気配”がある。
「おお、ゼファーのナナハンじゃん!」
夏菜が口笛を吹く。
「相当カスタムしてあるな。
……こんなん置いてあったっけ?
カッケェけどよ、最初に乗るにはちょいヤバくねぇか?」
夏菜の母は、ほんの一瞬だけ沈黙してから、口を開いた。
「ああ、それね。
“刄威虚音”って通り名で有名だった走り屋が乗ってたのよ。
男好きでさ、その趣味もまた……
まぁ、やりたい放題の奴だったんだけど」
「……」
「いろいろあって、そのバイクがウチに来たの。整備はちゃんとしてる。でも——」
母はタンクをそっとなで、目を伏せた。
「誰が乗ってもエンストしたり、スリップしたり。……曰く付きってやつ。
そのバイク、乗り手を選ぶのよ」
一琉はそっと近づき、タンクに手を伸ばす。
黒と銀の境目に、自分の顔がぼんやり映る。
「刄威虚音……か
……なんだろう、すごく……寂しがってるような……」
指先が触れた瞬間。
キュルルルル——
バン!!
「「はぁ!?!?」」
夏菜と母が、完全にハモった。
キーも挿していない。
なのに、セルが一瞬回って、目覚めの咳をひとつ。
排気の匂いが、ほんのかすかに空気を焦がした。
一琉は驚きつつも、どこか納得したように呟く。
「……この子、乗ってみてもいいですか?」
◇
夏菜母による再度の点検後、
外へ押し出されたゼファー。
シートに跨る一琉の姿は、
まるで最初からそうであったかのように馴染んでいた。
乗り方の仕組みを知識として知っているだけ、なのに。
ステップの高さ、ハンドルの切れ角、シートの沈み。全部が「わかる」。
重い――はずなのに、怖くない。
跨った瞬間、体重の預け先が自然と見つかった。
「……怖くないのか?」
夏菜が息をのむ。
「うん。……大丈夫。なんか、“分かる”気がする」
スロットルをほんの少しだけ開ける。
金属の目が、ゆっくり覚めていく。
「……行きます」
そっとクラッチを繋ぐ。
車体は、まるで“ようやく”と言わんばかりに滑り出した。
――吸い付くような走り。
大型のはずなのに、重さを感じない。
風が、ハンドルを通じて脈打つ。
(すごい……重いのに軽い。
まるで……息を合わせてくれてるみたいだ)
周囲をひと回り。ふた回り。
それだけなのに、もうどこにだって行けるような気がする。
戻ってくる頃には、手と足と鼓動がひとつにまとまっていた。
店先で腕を組む二人は、
文字どおり口をポカンと開けていた。
「まさか、あの刄威虚音の単車が……男に惚れるとはね」
夏菜の母が、呆れと感心の間で笑う。
「乗り手も相棒も男好きだなんて、笑っちゃう」
そして誰にも聞こえない声で呟いた。
「——ほんと、アイツらしいわ」
◇
日も傾き、風がぬるくなる。
一琉と刄威虚音は店に戻り、息を整える。
額に触れた初夏の風が、やさしかった。
「こいつ、他の奴には乗りこなせないし、
譲ってもいいわよ」
母が、工具台の前で腕を伸ばす。
一琉は頭を下げた。
「……いえ、この子は、自分のお金で迎えてあげたいです」
「あら、素敵ねぇ。十年若かったら惚れてたわ」
「おい…!」
夏菜の肘が母の脇腹に入る。
「お値段は——こんなところね」
提示された額は、驚くほど安い。
「え?これってバイクの値段としてはすごく安いんじゃ?」
「うふふ、売るに売れずに困ってたくらいなんだから。
永久整備サービス付きの値段ってとこよ」
「そんな……ありがとうございます。
必ず払います」
母はウィンクをして、壁を顎で指す。
「……あの単車、ちゃんと整備しといてあげる。
キーはそこ、壁の鍵掛けの三番目。
……もし誰かが“勝手に”乗っても、気づかないかもね」
店を出ての帰り道。
落ち切っていない日が季節の移り変わりを感じさせる。
「一琉、マジであれ乗るのかよ?」
夏菜が呆れ顔をしながらも、ほんの少し誇らしげだった。
「驚いたけど、似合ってるかもな」
一琉は穏やかに微笑んだ。
「ありがとう。あの子も、ちゃんと走りたかっただけだから」
夕風が店の奥、刄威虚音のタンクをなでる。
錆びついたはずの心臓が、再び微かに鼓動した。
まるで、“目醒める”瞬間を、待っていたかのように。




