第4話 約束
焦げたゴムとガソリンの匂いの中で、
高架下は嘘みたいに静まり返っていた。
誰も動かない。
追手の女たちは全員、倒れている。
意識のある者はうめき声をあげ、
動けない者は沈黙したまま地面を見ていた。
鬼哭冥夜はその中心に立っていた。
鉄扇を畳み、腰へ戻す。
夜風が彼女の髪をなで、煙草の灰を散らしていく。
「……教団だかなんだか知らねぇが——」
「坊。あたしは筋が通ってねぇ話は嫌いなんだよ」
その声が、胸の奥に染みた。
ぼくは息を吸い、胸の中の何かが熱くなるのを感じた。
嘘も虚飾もない。
この人は、本当に“生きている”。
そう思った。
口元に薄い笑みを浮かべ、言葉を続けた。
「よく来たな。」
その瞬間、胸の奥で何かがはじけた。
恐怖でも、安堵でもない。
もっと根っこの方にある、名前のない感情。
生まれて初めて、“信じたい”と思った。
「行くぞ」
彼女が片手で合図を出すと、
黒い特攻服たちが散るように動いた。
転がる武器を蹴り払い、車のナンバーを写真に収め、バイクのエンジンをかける。
…テーザーガンから舞った紙片まで回収している。
何かに使うのだろうか?
明らかに慣れている動きの後始末が終わり、
先ほど缶コーヒーをくれた女の人から声がかかる。
「準備できたぜ、ヘッド。指示を」
「二手に割る、外れの高台だ。三分で散開。——ケツはあたしが持つ」
ぼくの知らないはずの言い回しが、やはり懐かしい。
“この世界”の言葉なのに、“知っていたほう”へ帰る道標みたいに感じる。
「ずらかるぞ、坊」
鬼哭冥夜はそう言って、単車を指さした。
背の低いバイクだ。
車体の黒は艶消しで、無駄な飾りもない。
背を向け、単車にまたがる。
ヘッドライトが夜の闇を切り裂く。
「乗りな」
ぼくはためらいながらもうなずいた。
跨った瞬間、鉄の冷たさと油の匂いが混ざって、胸の奥まで沁みた。
エンジンが唸りを上げる。
背中にしがみついた瞬間、
世界が動き出した。
◇
夜の街が、線になって流れていく。
街灯の光、信号の赤、ビルの窓、全部が尾を引いて、世界が動いていた。
風が頬を切る。
でも痛くない。
むしろ、冷たさが気持ちいい。
身体の奥に眠っていた何かが、呼び覚まされていくようだった。
教団の屋敷では、きっともう混乱が始まっている。
赦光の連中が全滅したことも、すぐに伝わるだろう。
ぼくの作戦とも呼べないような脱走がうまくいったとして、
追手はまた来るかもしれない。
それでもいい。
この風の中にいる限り、ぼくは、ぼくだ。
誰の所有物でもない。
誰の言葉にも縛られない。
息を吸う。
冬の空気が喉を焼くほど冷たいのに、不思議と心は透き通っていた。
鬼哭冥夜が振り返り、笑った。
「坊、たのしいか?」
ぼくは、声にならない声でうなずいた。
ただ、笑うことしかできなかった。
生きている。
そう思った。
この風の中で、たしかに自分は生きている。
◇
どれくらい走っただろう。
やがてバイクが高台の駐車場に止まった。
エンジン音が止むと、世界が一瞬で静まり返る。
空の端が、ほんの少しだけ明るくなっていた。
夜が終わろうとしている。
鬼哭冥夜は無言でタバコを取り出し、火をつける。
紫煙が風に流れていく。
「あの……」
気づいた。
ぼくは、まだこの人の名前を知らない。
「アカネだ」
「え?」
「名前だよ。明堂アカネ。アカネでいい」
「……アカネさん…」
しばらく沈黙が続いた。
アカネさんは街の灯りを見下ろしていた。
煙草の火が小さく赤く揺れている。
「坊」
その声は、さっきより低くて、でも温かかった。
「お前、もう誰かに決められて生きる必要なんてねぇ」
ぼくは、息をのんだ。
言葉が喉で固まる。
「これから先、いろんな奴がいろんなこと言ってくる。
“こうしろ”だの、“こうあるべき”だの。
……そいつらは、お前の人生のケツなんか拭いてくれやしねぇ」
「……じゃあ、どうすれば……」
アカネさんはタバコを灰皿代わりの地面に軽く叩き、
群青から橙に変わる空を見ながら言った。
「簡単だ。自分の足で立て。
自分の信念——“スジ”を通して生きろ。
良いとか悪いとか関係ねぇ。それでいい」
「……自分の、信念……」
「生きるってのは、息してるだけじゃねぇ」
「ちゃんと自分で選んで、痛ぇ思いして、それでも立つことだ。
誰かの指示で転んでるうちは、生きてるうちに入らねぇ」
「……」
「それが通らなくなったら、その時は戻ってこい。
あたしがケツ持ってやる」
ぼくは胸の奥が熱くなるのを感じて、ゆっくりうなずいた。
“戻ってきていい場所”。
そんなものが、自分にあるなんて思ったこともなかった。
「……はい」
「よし。それで約束だ」
アカネさんがうっすら笑った。
朝焼けの中、煙草の火が小さく赤く光っていた。




