第27話 潜入開始
少しずつ日が伸びてきた、夕暮れの路地裏。
パン屋”カノン”の明かりが遠くに滲み、
アスファルトに伸びた影が一琉の足元を飲み込んでいく。
ポケットの中には、名刺サイズの一枚の紙片。
そこには匿名通話アプリの連絡先と、
流れるような筆跡でただ一言——
「困ったらここに」とだけ記されていた。
一琉は深呼吸をして、
スマホの発信ボタンを押した。
わずかな沈黙のあと、艶のある女の声が応じる。
「……あら。可愛い声ね。
誰かと思ったら、あのパン屋の子じゃない」
「……静さんに、もう、限界で……」
「……は?」
通話の向こうに、ゆったりとした女の声が響く。
以前カノンに現れた、蜘蛛の巣会の幹部。
「近づいた女の人たち、みんな、いなくなってて……
僕も殴られて……見てください、これ……」
彼はビデオ通話に切り替え、頬の痣を映した。
化粧で隠していた、
という設定の薄い青あざ——
ペイントではない。自らつけた“本物”だ。
「普段は隠してるんです。……お金も全部取られてて。
隙を見て逃げ出してきたんです。
……なんでもしますから、匿ってください……」
声を震わせる一琉。
夜風にかすかに混ざる、演技とは思えない怯えの息。
画面の向こうで、ジョロウが短く息を吐いた。
「……この痣、本物ね」
少しの沈黙。
それは“信じかけた”沈黙だった。
「ふぅ……都合よすぎて笑えちゃうけど」
と、ジョロウは低く笑い、
「逃げてきたんなら、歓迎してあげなくもないわよ? 私のことは“ジョロウ”と呼びなさい」
一琉は頭を下げた。
その瞳の奥には、冷たい光が宿っていた。
(……よし、食いついた)
◇
数百メートル離れたビルの屋上。
双眼鏡を構える影。守屋静。
レンズの先に映るのは、泣き顔の一琉。
「暴力を振るう支配的な女……私が……一琉クンに……?」
守屋静は拳を握る。
指先の血色が失われるのを自覚してから、
呼吸を整えた。
「……演技、だよね。わかってる……けど……」
胸の奥の何かが、軋む音を立てた。
夜風が、髪を揺らす。
静は息を吐き、ポニーテールを結び直した。
——そして再び、瞳を双眼鏡に戻した。
彼女の視界の中心で、
幹部と合流した一琉が、
“獅子身中の虫”として巣へ招かれていく。
◇
ビルの中や裏路地、地下道、タクシーに人の少ない電車。
偏執的とも思える尾行対策を経由したどり着いた場所。
ジョロウの案内で、一琉は人気のない廃公園の奥へと進む。
雑草の向こう、連結されたコンテナハウス群。
「さ、着いたわよ」
ジョロウは口に飴を含んだまま、指を鳴らす。
「中に入る前に——ボディチェックさせてもらうわ」
一琉は肩をすくめ、素直に上着を脱ぐ。
「……疑われるのは当然ですから」
ジョロウは飴をカリッと噛み砕き、飲み込むと、手際よく確認を始めた。
上着のポケット、腰、靴の中。
指先の動きは慣れていて、容赦がない。
「……何もないのね。スマホは?」
一琉は伏し目がちに言う。
「……GPSで居場所、見張られてるかもって思って……置いてきました」
ジョロウが眉をひそめた。
「……えぇ……。ガチDV……」
一琉は悲しげに笑い、視線を床へ落とす。
「僕、……いつもあの人の機嫌、見てなきゃいけなくて……」
「チッ。やっぱ“音無し”ってヤバい女なのね。まったく、どこで拾ったのよあんなの」
一琉の姿に、ジョロウの目が細くなる。
同情——いや、支配者特有の“興味”だ。
「……ま、いいわ。
ウチには“使える奴”がいくらいても困らないの」
一琉の瞳が伏せられる。
その瞬間、冷静な分析が頭の奥で回り始めていた。
(……これで信用は取れた。
痣も効いてる。ここまでは想定通り)
鉄がきしむ音がして、
蜘蛛の巣の扉が口を開けた。




