第25話 夜風に名前をのせて
街灯の少ない帰り道。
ついさっきまで淡い光に包まれていた商店街を背に、
一琉は歩を緩めた。
自販機の横。見慣れた、
けれどどこか街のざわめきが遠くに聞こえる場所。
「……守屋さん、いるんでしょう?」
言葉が夜に溶けた瞬間、風がかすかに揺れた。
何もない空間に、静かに“気配”が立ち上がる。
制服の裾がふわりと揺れ、影が歩み出る。
音もなく、そこに立っていたのは——
「やっぱり、ずっと見守ってくれてたんだね」
一琉は静を見て、ふっと微笑んだ。
「ありがとう。いままで……人知れず、護ってくれてたこと」
静の瞳に、誇示も言い訳もない。
ただ、どこか無念さを滲ませていた。
けれどその沈黙の奥にある“肯定”は、
確かに伝わってくる。
「嫌がらせがあの程度で済んでいるのも……
守屋さんのおかげでしょう?」
一歩、二歩、距離を詰める。
夜の冷気の中で、互いの呼吸が重なりそうな距離。
「でも……僕、わかってるつもりなんだ」
「……?」
「本当なら、嫌がらせも、あの女も、
僕が気づく前に“消されていた”」
静の視線がわずかに揺れた。
一琉は微笑みを保ったまま、言葉を続ける。
「今、静さんが背負ってるものが、
手に余りはじめてるってこと。
——わかってる」
風が二人の間を抜けた。
一琉は掌をぎゅっと握り、吐息を整える。
「僕は一人では戦えない。
怖いし、力もないし、すぐに泣きたくなる」
「……」
「でも、護られてるだけの自分じゃ、
……いやなんだ」
一琉はまっすぐに、静を見据える。
その瞳は、穏やかで、けれど確固たる意志に満ちていた。
「協力させてほしい。
僕なりのやり方で、手を貸したい」
しばし、沈黙。
遠くで猫の鳴き声がした。
やがて、静は小さく頷いた。
それはほんのわずかな動き——
だが、確かな答えだった。
誰にも知られないまま消えるはずだった“孤独な番犬”が、
初めて存在を“認められた”瞬間。
風が、やさしく通り抜けた。
沈黙の中、静はふと目を伏せ、
街の灯を背に呟く。
「……あの女を、仕留めなかったのは──」
一琉が顔を上げる。
「いい判断だと思った」
「え?」
一琉は迷いなく続ける。
「……あの人だけ倒しても、意味がない。
幹部の一人を倒しても、すぐ代わりがくる。
今は、潜る時」
瞳に映るのは、戦う者の確信だった。
「!…うん。“巣”そのものを暴かないと——」
一琉の言葉を受け継ぐように、静が続けた。
「そして、ボクを守らないといけないから、追えなかった——
相手も相当気をつけてるだろうし、
追ったとしてもアジトにはたどり着けなかったと思う」
「……!
…その通り。…ごめん」
「ふふ、謝らないで」
わずかに、風が柔らかくなった気がした。
冷たい夜気の中で、
静の声がどこか温かく響く。
ずっと無表情で、感情を押し殺していた彼女が、
こんな風に、言葉を紡いでくれるなんて——
一琉は胸の奥が熱くなるのを感じた。
「……守屋さんは、本当にすごいね」
その一言に、静の表情がふっと揺れる。
そして、かすれるような小さな声で。
「……でいぃ」
「え?」
「静……と呼んで、ほしぃ……」
目を伏せ、顔を少しだけ背けながら。
頬は、今にも湯気を立てそうなほど真っ赤に染まっていた。
一琉はしばらく呆気にとられたあと——
柔らかく微笑み、小さくうなずいた。
「……うん、静。よろしく」
その声に、静は小さくうなずき、フードを深くかぶった。
照れ隠しのように、指先で紐をきゅっと結ぶ。
それは“音無しの静”が初めて心から満たされた夜であり、
一琉にとっては、“護る者と護られる者”の関係が変わり始めた夜でもあった。
◇
「おーい、転校生。
んなとこで何やってんのよ」
後ろから迎えに来た鷹津の声がかかる。
「最近物騒だっていってるでしょーが。
先上がったって聞いて焦ったっての」
鷹津のほうを向き、答える。
「ごめんごめん。でも大丈夫、ほら…」
静の方に振り替えると、彼女はすでに姿を消していた。
鷹津が怪訝な顔を浮かべる。
「…?」
「…………ふふ、
やっぱり恥ずかしがり屋さん、だね」
「あん?なんだってのよ」
「なんでもないよ。お迎え、ありがとう」
一琉は月を見上げて柔らかく微笑んだ。
◇ ◇ ◇
静の自宅。トレーニングルーム。
窓の隙間から月光が差し、
床のマットに薄い四角を落とす。
壁際にはサンドバッグ、ダンベル、懸垂台、腹筋台。
すべては「護る」ために揃えられた、彼女の“日常”。
トレーニングウェアで、黙々とサンドバッグを打つ。
だが――
(……静、って……呼んでくれた……)
その瞬間を思い出しただけで、拳が震える。
──ガキィン!
あまりの連打に浮いていたバッグの鎖が音を立てる。
(……ちゃんと、耳で聞いた……)
(名前、呼ばれた……やわらかい声で、あたしを……っ)
──ばっ!
突如、壁の前で逆立ち姿勢、倒立腕立てを始める。
呼吸を整えようと必死だが、頬が真っ赤。
(落ち着け、静。集中が乱れてる)
息を整える。
が、頬はまた熱を帯びる。
「しず……って……」
(ああああああああ!!)
──倒立崩壊。バタリと床へ。
天井を見上げて、放心。
「……死ぬ……」
ごろごろと床を転がる。
「名前呼ばれただけで死ぬとか……
護衛向いてない……ぅぅ……」
立ち上がり、サンドバッグを弱く一発。
軽い音が、空間に溶ける。
「……明日は……もっとうまく動けるように……しなくちゃ……」
仰向けのまま、月に掌をかざす。
指の隙間を、白い光がさらさら流れた。
そして、ふと顔を上げ、小さく呟く。
「静……って、もっと……呼んでくれたらいいのに……」
月光が彼女の頬を照らした。
その赤みはまだ、冷めそうになかった。




