第24話 蜘蛛の手管
放課後。
春の曇り空は、光をやさしく濁していた。
湿り気を帯びた空気が、ショーウィンドウのガラスを少し曇らせる。
パン屋”カノン”のガラス戸を拭いていた天凪一琉は、ふと視線を外へ向ける。
「……?」
向かいの電柱に、よれたパーカー姿の中学生が三人。
誰かの様子をうかがうように立っていたが、目が合うとそそくさと逃げ去った。
不自然。だが、一琉はそれ以上深く考えず、再びクロスを動かす。
◇
翌日。
出勤した一琉に、店主の女性が苦い顔で告げた。
「今朝ね、シャッターが開かなかったのよ。
鍵穴に接着剤みたいなもの、流し込まれてたの」
「えっ……そんな……」
「まあ、業者に頼めば何とかなるけどね。物騒になったもんだわ」
その日、一琉は何も言わず、開店準備を黙々と進めた。
曇り空の下、遠くで鳥が低く鳴いている。
◇
次の日。
立て看板が真っ二つに折られていた。
その翌日は、裏口のドアに赤スプレーで脅しの落書き。
「“坊やの面、潰す”……か。悪趣味ねぇ」
店主は苦笑しながらも、娘は明らかに怯えていた。
警察を呼び、巡回を強化してもらう。
悪意の匂いは確かにそこにあった。
警察に…夏菜や鷹津がいる時には絶対現れない狡猾さ。
それでも一琉は、出勤し、掃除をし、笑顔でパンを並べ続けた。
まるで嵐の中心にいるような静けさで。
◇
そして、その日が来た。
ガシャンッ!
ガラス戸を蹴る音が響き、鈍い悲鳴を上げた。
その瞬間、奥から中年女性――店主が現れた。
手には古びた金属バット。
照明を反射して、銀の軌跡が床に伸びた。
「いい度胸だね。
うちの店、もともと潰れかけだったんだよ」
唇を歪めて笑う。その声音には怒りよりも誇りがあった。
「それを助けてくれた子がいるのにさ。
あたしが黙って引き下がるとでも?」
戸口に立っていた少女が、肩をびくりと震わせる。
明らかにパシリだ。背後の二人も青ざめている。
「帰りな。うちは商売してる。
アンタらの相手してる暇なんかないんだよ」
少女たちは顔を見合わせ、蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
その光景を――屋根の上の影が見ていた。
風の中、黒い影が一度だけまぶたを伏せる。
そして静かに立ち去った。
バットが引っ込むと、店はまたパンの匂いで満ちた。
数分後、遠くの路地で、短い悲鳴が上がった。
◇
数日後の夕暮れ。
閉店間際の店内。
一琉が棚を拭いていると、カラン、と鈴の音が鳴る。
「ごめんくださーい。まだ、閉店じゃないよね?」
その声に顔を上げると、一人の少女が立っていた。
艶やかな黒髪。レース混じりのストリート風制服。
年齢は十代半ばのはずなのに、空気が妙に冷たい。
「あ、いらっしゃ──」
言葉が途切れた。
笑っているのに、店内の温度が下がるような違和感。
“何か”が違う。
「かわいい子が働いてるって聞いてたけど……ほんとだ。
ここでお仕事してるの、一琉くん、でいいのかな?」
「……はい。…あなたは?」
「あたしは通りすがりの近所の女の子。
最近このあたり、ちょっと物騒でしょ?
落書きとか、ガラスの件とか──かわいそうに」
指先で鈴を弾くみたいな声色。目だけが笑っていない。
彼女は視線だけで店内を観察し、カウンターに肘を置いた。
「うちの知り合いにもね、いたの。そういうことしてた子たち。
でもね、ちょっと変なことがあって……みんな、襲撃されちゃって。
ボロボロになって、病院送り。
あれ、すごいね。なにがあったのかなぁ?」
微笑んだまま、瞳の奥が光を失っている。
「いやね、別に、責めてるわけじゃないんだよ?
ただちょっと思って。
こんなかわいい顔して、怖い子なのかな〜って」
「……僕は、ただパンを焼いて、並べて、売ってるだけですよ」
「ふふ、いい子。——でもね、一琉くん」
笑顔が形だけに変わる。
「このままだと、たぶん、この店、潰れるよ。
お客さん、思ったより減ってないけど時間の問題だよ。
もっと“割のいいお手伝い”、してくれれば、誰も困らないのにね。
大人がいないって、大変でしょ? お金も、心配でしょ? ねぇ?」
言葉は柔らかい。だが、喉を締めるような圧があった。
一琉はゆっくり息を吸い、笑顔のまま言った。
「……すみません。お店の人に確認しないと、勝手なこと言えないんです。
ちょっと待っててもらって、いいですか?」
「ん? うん、待つのは平気。……でもさ」
ジョロウは一琉の耳元に顔を寄せ、ささやいた。
「パンを焼くのもいいけど、
“焼き尽くされる前”に、どうするか選ばないとね」
にっこり。
名刺サイズの連絡先を置く。
甘く香る息が、まるで毒のようだった。
そして彼女は気まぐれにクロワッサンをひとつだけ買い、
手を振って去っていく。
◇ ◇ ◇
夜。店主に頼んで少し早く店を出る。
夏奈や鷹津が迎えにくる少し前の時間。
一琉は、自販機の脇で立ち止まる。
街のざわめきが遠くに聞こえる場所。
——梨々花と夏奈の言葉が脳裏をよぎる。
『“あんたを守ってる何か”がいる。
そう思ったこと、ない?』
『……優しい、ねぇ。
あいつ守屋静だよ。二年で最強って噂の』
そして——今も感じる、微かな気配。
「……守屋さん、いるんでしょう?」
風が、かすかに揺れた。




