第22話 夜のタンデム
店のシャッターが下りるころ、
通りには夜の空気が流れていた。
一琉はエプロンを外し、
制服に着替えるとパン屋「カノン」を出る。
その瞬間、路地の先で聞き慣れないエンジン音が鳴った。
いつもの虎柄スカジャン、茶髪のショート。
近江夏奈が単車にまたがり一琉の横に停める。
「……あ〜、こいつはあたしの単車なんだけどさ」
レーサースタイルの単車が街灯を反射していた。
紺・青・白のトリコロールが目を引く車体。
アイドリング中でも弾けるような連打音が鳴る。
一琉は発射を待つロケットのようだと感じた。
夏奈は、横目で一琉を見た。
「もしよかったら……歩くよりずっと早いし……」
「え、乗せてくれるの? わ〜、うれしいな」
「!……お、おう」
不意に赤くなった夏奈の頬を、街灯が照らす。
一琉が後ろにまたがると、革シートがわずかに沈んだ。
夏奈がミラー越しに一秒だけ視線を合わせ、そっけなく前を向く。
「加速スゲーから、落ちんなよ」
「うん、ちゃんと掴まってるから」
短く返す声。
夏奈は何かを誤魔化すようにクラッチを握り、アクセルをひねる。
空気を切り裂くような甲高いチャンバー音が響いた。
通りの屋根では影が珍しく全力で移動を始めていた。
◇
風を切る。
街の灯りが流星みたいに過ぎていく。
夏奈は無言のまま、速度を落とさず走る。
やがて、赤信号で止まった。
「……なあ」
「うん?」
「別に言っても面白くない話なんだけどさ。
ウチ、実家バイク屋なんだ」
「えっ!? いいな、それ」
「……は?」
一琉は笑うような声で続けた。
「この前、アカネさんの後ろに乗せてもらった時から、
ずっと興味あったんだよ。
エンジン音とか、風の感じとか……かっこいいよね」
「お、おま……鬼哭冥夜の後ろに乗った!?
マジか……てか、男子にそんな反応されたの初めてだぞ」
「今度見に行ってもいい?」
「……フッ、しゃーねーな。見せてやるよ、特等席だ」
青信号。
夏奈はスロットルを軽く開ける。
春の夜風が二人の間を通り抜けた。
◇
「このバイクはなんていうの? すごい加速だよね」
夏奈の声がふっと色づく。
「へへっ、こいつはガンマっつってな!今じゃレアな2ストであたしのはV型!街じゃそれなりだけど峠じゃすげぇんだぜ排気量で甘く見るやつもいるけど大型にだって負けないポテンシャルがあるんだ純正で十分速えんだけどアタシはチャンバー換装だけはマストだと思うね伸びが全然違えんだまああたしはCDIとかも弄ってるけどな興味あったら今度後ろに乗せてってやるしなんならもう一台手入れしてるウルフってのがあってそいつも良い2ストで結構軽いからあんたでも乗れると思うし実はガンマの姉妹車って言えるような存在で——」
そこまで一気にまくしたてて、夏奈はふと我に返った。
視界の端で、一琉が優しく笑っているのが見える。
言葉が一瞬、喉の奥で止まった。
「……わり、喋りすぎた」
「ふふ、バイク好きなんだね。
……ねえ、もっと聞かせてよ」
「!……そ、それじゃ、こいつのパワーバンド…
あー、特徴についてなんだけど……」
口調は落ち着いたつもりでも、言葉は弾む。
前を向いたままの夏奈の口元が、少しだけ緩む。
「こいつみたいな2ストはさ、
エンジンがある回転域に入ると一気に“来る”んだ。
そこがパワーバンド。外すとスカっちまう。
いまのセッティングだと、中の上ってところだな。
そこを外さねぇのがコツなんだ」
「“来る”って、どうやってわかるの?」
「楽器みたいなもんだ。
排気と吸気、そして振動のベストなタイミングを…
合わせる!」
「…わあ!」
信号が青になる。
猫の跳躍のような加速が鋭く風を引き裂く。
街灯が遠のき、坂道をガンマが軽やかに登っていった。
◇
「……なあ、一琉」
「うん?」
「バイクってさ、怖くねぇか?」
「ううん。風が気持ちいいよ」
「……そっか」
夏奈の声がほんの少し柔らかい。
前を向いたまま、口元が緩んでいる。
夜風は少し冷たく、けれどどこか優しかった。
背中越しに伝わる鼓動を確かめるように、
夏奈はアクセルを軽く煽る。
角を折れた先、アパートの明かりが見えた。
夏奈は歩道に沿って単車を寄せ、エンジンを止める。
焚火のような残響が静かに余韻を残した。
少し離れた屋根にわずかに震える影が滑り込んだ。
一琉はガンマから降りると柔らかく笑う。
「ありがとう。すごく楽しかった」
「おう。……じゃ、また明日。
……その、今度店にも来いよ」
「うん。約束」
一琉が階段を上がるまで、夏奈はしばらく動かなかった。
踵を返し、エンジンを掛ける。
メーターの針が静かに震える。
——ガンマのエンジンが、星空へ駆け上がるように鳴いた。




