第16話 ストーカーと呼ばないで
裏路地の一幕と同じ時刻。
屋根の上には、影がひとつ。
守屋静はいつも通り気配を消していた。
視線は真っすぐに一琉を捉えながら、
周囲の出入りと物音を感覚の網にかける。
(……今日も安全。パン屋は盛況。
帰り道——
人通りの道多い道を選んでる。えらい)
悲鳴が上がった瞬間、
静の身体は先に動いていた。
路地の屋根伝いに音を殺して滑り、
室外機の上にポジションをとった。
非常階段の踊り場と路地が交差する“上位”の位置。
ここからなら、いつでも落下できる。
奇襲は一拍で完了する配置。
下をのぞけば、一琉がスマホを手に、
堂々と路地へ入っていく。
通報、警告、観察。
時間を稼ぎ、言葉を投げる。
(冷静。……一琉クンは、一人で戦ってる。
私が“護ってる”つもりだったけど)
胸の真ん中に、知らない熱が灯った。
(かっこいい……しゅき……)
彼の声が、屋根の上まで届いた。
「君たち、もしかして……無理にやらされてるんじゃない?」
(……言葉で止める? そんなこと、できるの?)
静の手が拳を握る。
だが、その拳が必要になる前、
サイレンの音が近づき、不良たちは散った。
(“蜘蛛の巣会”。
噂には聞いていたけど、
こんなところにまで糸は伸びてた)
(あれで終わりなわけがない)
現場が片づき、少女が保護される。
屋根の上の風だけが、事件前と同じ顔で吹いている。
静は目を細め、薄暗くなってきた空を見上げた。
(一琉クンは、また誰かを助ける。
無茶をする。
……私がいなきゃ)
瓦の縁を蹴り、影は夜の端へ溶けた。
◇ ◇ ◇
静の部屋には、トレーニング器具が几帳面に並ぶ。
(護衛——強化)
自ら考えた修行を、ルーティンに組み込む。
彼女の手帳には独自の方法論が大量に書き込まれている。
〈打撃の最短化/立ち位置の“死角化”〉
〈発見と追跡の反復〉…
ページの余白には、
見守りルートの改良案がびっしり並ぶ。
吊るされたサンドバッグに、
同じフォームでミドルが連打される。
倒立腕立て。
インターバル十五秒。
息は乱れない。
——基礎的な肉体訓練。
校舎の屋上で静かな、だが凄まじい威力のシャドー。
背後でドアが軋む——
入ってきた生徒たちはそこに誰かいたなど考えもせず、
談笑を始める。
——あらゆる局面で気配を切る訓練。
廊下ですれ違う生徒に、小さく、
「……おはよう」
「えっ、喋った!?」
振り返ったときには、もう静の姿は消えている。
——コミュ力改善トレーニング。
放課後の公園。
バイト前にベンチでおにぎりを食べる一琉を、
遠くの茂みから双眼鏡で確認する。
顔色、体の動きから推察される体調——異常なし。
(見守るだけで、きっと彼は気づかない。
でも、それでいい)
(この世界に、彼の居場所があるなら……
私の“場所”は、その周囲でいい)
夜。机に広げられた新しいページに、
タイトルが記される。
〈蜘蛛の巣会 独自調査開始〉
(排除する。私の手で)
窓の外に、静かな月がぶら下がっていた。
ペン先が止まり、深呼吸が一つ。
明日の彼の帰り道を、もう一度、指でなぞる。
(大丈夫。……明日も)
商店街では、噂が広まる。
「あのパン屋の店員さんが子供助けたって、マジ?」
来店数は、爆発的に増えた。
鈴が鳴り、袋が鳴り、オーブンが鳴る。
焼きたての香りの中で、一琉はいつも通りに笑っている。
屋根の上では、“音無し”が、いつも通りに息を隠していた。




