第109話 細い勝ち筋
先に動いたのは、修羅鬼だった。
綾羅が、左足を半歩だけ前に滑らせる。
肩が、わずかに揺れた。
次の瞬間、左ジャブがまっすぐ伸びる。
沙夜は顎を引き、右手で外側に払った。
そのまま右足を前に出し、ローキックを脛に蹴り込む。
がつん、と硬い感触。
綾羅は足をわずかに引いて受け流し、重心を崩さない。
被せるように、右ストレート。
沙夜は上体を反らし、髪をかすめて拳が通り過ぎる。
(重っ……!)
一発一発、骨に響く重さだ。
受けていたら、それだけでジリ貧になる。
沙夜は距離を取りながら、帽子のつばを指でつかんだ。
「――っ!」
綾羅が再び踏み込む。
右のフックが大きく弧を描いてくる瞬間、横へ半身を滑らせた。
同時に、帽子を横薙ぎに振り抜く。
金属芯入りのつばが面頬の前を叩いた。
カン、と金属音。
視界を遮られた綾羅の動きが、一瞬だけ止まる。
その隙に、沙夜は相手の右手首を左手でつかみ、自分の方へ引いた。
引き込まれる力に逆らわず、綾羅は逆に前に出る。
左肩をぶつけるように前へ――ボディへのショルダータックル。
「ぐっ……!」
沙夜の背が、すぐ後ろの柱に叩きつけられた。
肺から空気が押し出される。
そこに、腹へと短い膝蹴り。
間髪入れず、顔面めがけてのショートフック。
沙夜は両腕を交差させてブロックする。
それでもガードごと、頭が柱にぶつかった。
「っ……!」
歯の隙間から漏れた声を、綾羅が聞き逃さない。
「武器で誤魔化しても、中身は変わらねえな」
間合いを切るように一歩下がり、再び構えを作る。
両拳は顎の前、肘は絞って隙がない。
沙夜は、荒い息を吐いた。
腕の中で、キーリングが汗に濡れて滑る。
右手の指に、冷たい金属の感触。
「……誤魔化しじゃない。血祓戯は、こういう流派だ」
そう言いながら、左ジャブをフェイント気味に伸ばす。
綾羅が上体をわずかに引いた瞬間、沙夜は右手を開いた。
キーホルダーに付けたクボタン――細長い金属の棒を、握り直す。
狙いは、綾羅の前足。
足首の外側、真横から叩きつけた。
綾羅はブーツのプロテクターで受ける。
鈍い音と共に、眉がぴくりと動く。
「チッ……」
返すように、綾羅はローキックを振り抜く。
沙夜はギリギリで足を浮かせるが、
脛をかすめた衝撃だけで片足が跳ね上がった。
片足立ちになった瞬間、身体が浮く。
綾羅は蹴り足にスイッチすると、
沙夜の軸足に自分の踵を差し入れた。
足を引いて、払う。
沙夜の視界が、一気に回転した。
背中からコンクリに叩きつけられる。
「――っ、ぁ!」
肺がまた、強制的に空になる。
綾羅は上から圧をかけることもできた。
が、一歩引いて、そのまま立たせる。
「寝技に逃げる気はねーよな?」
言葉に、わずかな挑発が混じる。
立ったまま叩き潰す——配信を意識している。
(……これでいい)
沙夜は、背中の痛みに歯を食いしばる。
パーカーの内側に忍ばせた、軽い重みを確かめる。
立体駐車場のコンクリフロア。
照明が落ちる手前の、やや暗い一角。
――まだ“何もない”一角。
沙夜は、柱を利用して立ち上がりながら、ゆっくりと間合いを詰めた。
わざと、ガードを甘く見せる。
「はぁっ!」
綾羅が、ワンツーを打ち込んでくる。
最初のジャブは、頬をかすめてもらう。
わざとだ。
次のストレートを、ぎりぎりで外側に首を振ってかわす。
頬に熱が走るのをこらえ、その下をくぐるようにして右脇へ潜る。
同時にガラス瓶をつかみ出した。
(今だ)
足を止めず、そのまま綾羅の横をすり抜ける。
背後に回る瞬間、手に持った瓶を、床へと投げつけた。
仕込んだ分を全て投げつける。
パリンッ!
甲高い音が、夜の駐車場に響く。
透明な破片が、照明を受けて散った。
一見してわかる、ガラスの“地雷原”。
「おいおい……」
囲んで夏奈たちに圧をかける暗猫衆が、
思わず足を止める。
輪の外からもざわめきが起きた。
《うわガラスとかエグ》
《あそこ倒れたらザクザクじゃん》
《どんだけ武器仕込んでんのあいつ?》
綾羅も、一瞬だけ足元に視線を落とす。
特殊な瓶だ。
割れても尖った刃にはならないように加工してある。
だが、そんなことを知っているのは沙夜だけ。
見た目には、普通のガラス片と変わらない。
(……グラウンドは、選べなくなった)
綾羅はすぐに理解した。
——その“理解”が、ほんの僅かな制限になる。
「卑怯こそ正道、だっけか」
面頬の奥で、綾羅の声が低く笑う。
「“雑魚”らしい戦い方だな。
好きなだけ小細工してろや」
沙夜は、何も言わずにやりと笑い返す。
口の中に、血の味。
拳を握る指先が震えているのは、恐怖ではない。
痛みと、張り詰めた集中のせいだ。
綾羅が、再び前に出る。
今度は、ローから入った。
外側から内側へ、斜めにすくい上げるような軌道。
沙夜は、太腿で受ける。
同時に、クボタンを握った右拳で、綾羅の脛を打ち下ろした。
骨同士がぶつかるような音。
お互いにダメージのある打ち合い。
続けざまに、綾羅が右ストレート。
沙夜はその内側に頭を滑り込ませ、左肩で胸を押すようにボディブローを潰した。
近距離。
綾羅の膝が上がる。
沙夜は両手でその膝を抱え、腰を引いて威力を殺す。
が、そのまま首を抱え込まれた。
「っ――!」
首相撲。
左右に揺さぶられ、体幹を削られる。
沙夜は、首を取る腕の内側にクボタンを差し込んだ。
小さな金属が、綾羅の前腕の筋肉を押しつぶす。
微かな呻きと共に、力がわずかに緩んだ。
その隙に、沙夜は頭を抜き、後ろへ転がる。
背中で床を滑りながら、さっき自分が撒いたガラス片の縁を目で確認する。
(笑えるくらいに地力がちげえな……)
立ち上がる脚が震える。
太腿のロー、腹への膝、首への圧力——全部効いている。
それでも、床の“罠”はできた。
修羅鬼の選択肢を、ひとつ奪った。
沙夜は、再び構えを取った。
血祓戯流で削り続けた感覚と、道場で叩き込まれた新しい技術。
それらが重なった先にある、まだ名もない一手。
立体駐車場の中心で、修羅鬼と業前を交わしながら。
鷹津沙夜は、細い細い勝ち筋を必死に繋ぎ止めていた。




