第101話 腹筋ツンツン冬景色
冬の朝の教室は、ほんのり白い息の色で満ちていた。
窓の外には薄く雲のかかった青空。
ストーブの前だけ、やたら人口密度が高い。
ガラリ、とドアが開く。
「……おはよ」
沙夜が顔を出した瞬間、教室の空気が一瞬だけ止まった。
首のあたりに残るうっすらした青あざ。
制服の上からでも分かる、肩まわりと太ももの張り。
歩き方も、どこかぎこちない。
「沙夜……!」
真っ先に気づいたのは一琉だった。
席から立ち上がり、駆け寄る。
「だ、大丈夫? この前よりさらにボロボロなんだけど……
襲撃とかじゃないよね?」
「ちげーよ」
沙夜は苦笑して、片手をひらひらと振った。
「ちょっと、家の鬼どもが本気出してきただけ」
「十分物騒なんだけど」
夏菜が机に頬杖をついたまま、呆れたように笑う。
「でも、まぁ……顔の血色は悪くねーな」
「……あれ? 沙夜、なんかさ」
一琉は制服の袖あたりをまじまじと見つめる。
「前より、筋肉付いたんじゃない?」
「はぁ? 気のせ……っ」
袖越しに、指先がそっと二の腕をつついた。
指先の先に、硬いものがある。
「おお、本当に固い」
「ひゃんっ!?」
変な声が出て、沙夜は真っ赤になる。
「い、今のは違う! 筋肉がビックリしただけ!」
(こいつ、ほんっと悪意ゼロで距離つめてくるよな……!)
耳まで熱くなる。
「さ、触る前に言えや……心の準備ってもんが……!」
沙夜は耳まで真っ赤だった。
「ごめんごめん。でもすごいなあ。血祓戯流、効いてるんだね」
「……ま、まあな。あの地獄メニュー超えてりゃ、そりゃ多少は」
沙夜がぼやきながらも、どこか誇らしげに胸を張る。
「…………」
どこからか、音もなく影が伸びてきた。
一琉は気づいていない。
「すごいよね。ほら、ここも――」
今度は沙夜の脇腹あたりを指でつつこうとして——
「……おい。スト、番犬が拗ねてるぞ」
夏菜が向かいの席から苦笑まじりに囁く。
一琉が顔を上げると、すぐ隣に静が立っていた。机一つ分も距離がない。
「うわっ、静近っ。どうしたの?」
静は無言のまま制服の裾をつまみ、すっと上げる。
鍛え上げられた腹筋が、白い肌の上にくっきりと浮き出た。
一琉は目を丸くする。
「すご……これ、何個に割れてるの?」
遠慮なく指でつん、と触る。
「……っ」
静の肩がぴくりと震え、小さく息が漏れた。
「ひゃぅん……」
「……アンタ、ほんとさぁ……」
梨々花が呆れきった顔でため息をつく。
(……かわいい)
一琉は心の中でそう思ったが、口には出さない。
代わりに、まっすぐな声で言った。
「二人とも、めちゃくちゃ頑張ってるんだね」
沙夜は咳払いをした。
「べ、別に……当たり前だろ。
あーしは、凪嵐の一人だし」
静は短く一言だけ。
「……一琉クンの、ため」
それだけ言って、自分のクラスに戻っていった。
◇ ◇ ◇
放課後。
それぞれの「強くなる時間」が始まる。
夏菜は、体育館裏のコンクリートの上で、
軽くシャドーをしてから、細い柱に手を当てた。
ステップインからのパンチ。
低く沈み込むタックルフェイント。
軸足を切り替えながらのローキック。
最後に、空を切るローリングソバット。
高く跳び、体をひねり、かかとを虚空に叩きつける。
着地で膝がきしむ感覚。
「……制圏道ってやつも、悪くねぇな」
昼奈に指摘された弱点——
飛び技の「着地まで無防備」を埋めるため、地上戦の選択肢を増やしている。
あのイカれ師範の言葉が蘇る。
『花は空中技でいくらでも咲かせなさい。でも、根っこは地面に張っときなさいな』
煙は、陸橋下の広場でシャドーにスプロールを混ぜていた。
前に踏み込みながらのワンツー。
すぐに腰を落とし、タックルを想定して足を引く。
空気に向かって膝を打ち込む。
朝霞の無言の指導が、体に染みついている。
(……組まれても、もう前みたいにはいかねぇ)
「まだ甘いな」
低く響く声が背後から飛ぶ。
振り返ると、ジャージ姿の朝霞が立っていた。
煙はにやりと笑う。
「じゃ、実戦で続きを――」
「三分三十ラウンド」
「……は?」
朝霞が構える。
煙は一瞬だけ顔をしかめ、それからゆっくり笑った。
「……ああ。付き合ってやるよ、先生」
そのころ、沙夜は道場のゴムマットの上で、ゼェゼェと肩で息をしていた。
手には薄い布で巻いた空瓶。
床には、細かく砕けたガラス片——ではなく、
飛び散った透明な樹脂の破片が散らばっている。
「……ッはぁ……これ、本当に刺さらないやつなんだよな?」
「大丈夫よ。ちゃんと丸く割れるように出来てるから」
昼奈が、床をつま先で軽く蹴った。
破片はつるりと滑る。
「でも、見た目は“危ない”でしょ? それでいいの。
これを見ればグラウンドの選択肢が薄れる」
「意識が足元から外れた瞬間が、あんたのチャンス」
「……卑怯だな」
「卑怯こそ正道よ」
昼奈は笑って、沙夜の胸ぐらをつかんだ。
そのままぐい、と引き寄せて、マットに叩きつける。
「どう使うかは自分で考えな。
——そこからどうするの?」
「っ……!」
沙夜は即座に腰をひねる。
片脚を絡め、昼奈の足をすくおうとする。
そこで昼奈の膝が、するりと軌道を外れた。
「重心読めてない」
軽い声と同時に、肩口に圧が乗る。
呼吸が一瞬止まる。
(……まだ、足りない)
喉の奥で、悔しさが熱く渦を巻いた。
◇ ◇ ◇
そんな「いつもの稽古」が続いてしばらく。
全員が道場に顔を出している日の夜。
道場の引き戸が、からん、と鈴を鳴らした。
「今日はここまで……って言おうとしたのに」
昼奈がタオルで汗を拭きながら、入口を振り返る。
そこに立っていたのは、見慣れた制服とはまるで違うシルエットだった。
濃紺のコート。
ゆるく巻いた髪。
手に下げたヨーヨーのケース。
「ごきげんよう、血祓戯流のみなさま」
一条 薫子は、冬の冷気と一緒に、優雅に微笑んでいた。




