哨戒
石造りの廊下には、戦いの気配が静かに満ちていた。フーリェンは潔い白色の隊服を纏い、重々しい甲冑の兵士たちに混じって歩を進めている。彼の足取りは重くも軽くもなく、長年共に歩んできた仲間の一員として、自然にその場に溶け込んでいた。
補給品の荷車が行き交う中、兵士たちは武器の手入れを怠らない。剣の刃を研ぎ、銃の機構を調整し、鎧の綻びを確かめては修繕班に手渡す。その中で、フーリェンは黙って手を動かしながらも、時折仲間たちの顔を見渡す。幼い頃から共に訓練を積み、戦いをくぐり抜けてきた彼らの姿は、どこか変わらず頼もしい。口数は多くないが、視線の先には揺るがぬ信頼が宿っていた。
ふとその中で、彼の意識はある回想へと引き戻される。
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会議室に集う顔ぶれは、戦を動かす中枢そのものだった。灯りの揺れる中、石壁に囲まれた空間に、ヘラの声が静かに響く。
「今回の最高指揮官は私が執る。全体の戦略判断はこの場で私が下す。ルカは中継地点として前線と後方を繋ぎ、連絡と戦力の再配置を担え」
「承知しました。女王陛下」
ヘラは視線をワンジーへ向け、命じる。
「ワンジーはオリバーを」
ワンジーは短く頷き、言葉を挟まなかった。彼女にとってそれは当然の任務である。
そして次に、ヘラの視線がフーリェンへと移った。その黒曜石のような瞳が、まっすぐに白狐を見据える。
「――フーリェン。お前には砦内の最終防衛ラインを任せる」
その言葉に、フーリェンはほんの一瞬だけ、まぶたを伏せた。目立たぬほどわずかに眉が動き、口元がきゅっと引き結ばれる。敵の狙いが自分であることは、本人が誰より理解していた。ならば、最奥にいることが最も合理的で、戦略的に正しい。けれどその判断は、仲間を盾にすることと紙一重。
前線を結ぶ中継地点で兵士たちと共に戦うことになるルカ。兵士たちの最前に立つベルトラン、命を懸けて王族を守るワンジー――。自分が囮であり、標的であるなら、前に立つのが当然ではないのか。そんな思いが、ひそかに胸の奥をかすめる。だが、それでもフーリェンは答える。顔を上げ、その琥珀色の瞳に迷いを封じて。
「フェルディナのために」
その声は静かだったが、凍てつく砦の空気にしっかりと届いた。ヘラは何も言わなかった。ただ、その目に一瞬だけ、彼を信じる深い光が宿ったのだった。
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回想は過ぎ去り、現実へと戻る。
手元の短剣を鞘に収め、腰へと戻す。静かに辺りを見渡し、次の準備に取り掛かろうと腰を上げた瞬間、背後から声がかかる。
「皆、休憩は短めに。すぐに全体点検を始める。準備を怠るな」
ベルトランの声に、兵士たちは身を引き締め、無言のまま頷く。フーリェンもまた、拳を軽く握り締めながら静かに頷いた。彼らの間に緊張感はあるが、血の気の多い興奮はない。むしろ、どこか凛とした落ち着きが漂っている。久しぶりの戦だが、彼らはただ慌てふためくことなく、静かに自らの役割を果たそうとしていた。
補給路の最終確認に向かう兵士たちと共に、フーリェンは砦の石壁を巡る通路を歩いた。厳寒の風が隙間から吹き込み、頬を冷たく打つ。だが誰も口を開かず、互いに拳を握り締める。
冷たい石の床に響く足音が、静かに、しかし確かに戦の幕開けを告げていた。
――――
夜――北の砦は凍てつくような静寂に包まれていた。風が石壁を叩き、雪がちらちらと舞い落ちる。月は雲に隠れ、空にはほとんど光がなかった。
砦の東側、監視塔へと続く回廊の影に、白い隊服を着た細身の影がゆっくりと歩を進めていた。肩には雪が薄く積もり、息は白く長く空に溶けていく。
「……交代です、フーリェン殿」
見回りをしていた若い兵士のひとりがフーリェンに気づき、すぐに敬礼を取る。
「…分かった」
フーリェンは軽く頷き、短く「ご苦労」とだけ言い残して塔を下りた。そのままフーリェンは、砦内の兵舎横に設けられた小さな詰所へ入った。中には簡易な火炉が設えられ、鍋の中でスープが静かに湯気を立てている。兵のひとりがそっと椀を差し出すと、フーリェンは黙ってそれを受け取った。
スープは塩と根菜の素朴な味だった。体の奥にじんわりと温かさが沁みていく。木椀から伝わるその温かさを噛み締めるように目を伏せる。ぼんやりとした暗がりの中、思考の深みに沈む。
なぜ――僕なのか。
変化の能力。それは彼にとって、決して誇れるものではなかった。外見を変えられる力。姿や声、時に匂いすら模せるその力は、確かに使いようによっては戦術的価値もあるのだろう。
だけど――。
(……こんな力の、どこに価値があるというのか)
姿を変えるだけの能力。たとえ相手を欺けたとしても、それが戦場で何を決定づけられるというのか。氷の刃や炎の壁のように、直接敵を退ける力はない。自分一人で戦況を覆すようなことは、到底できはしない。
思考の底に、じわりと黒いものが滲んでくる。見えない理由。知らぬ価値。考えれば考えるほど、その曖昧な「狙い」に背筋が冷えた。
この力を、ただの道具として使うつもりなら。あるいは――自分という存在そのものを、何か別の“媒体”として用いるなら。考えたくはなかったが、可能性は排除できない。
スープの湯気が、静かに揺れて消えていく。彼は立ち上がりながら、ほんのわずかに息を吐いた。
不安など、今に始まったことではない。
それでも、心の奥に根を張るように残るその黒い感情は、拭いきれなかった。
だからこそ、ここで終わらせる。
狙われる理由があるなら、それを潰してしまえばいい。自分という存在を獲物にさせはしない。脅威になるなら、それごと飲み込んで、砕くだけだ。
闇に包まれた砦の廊下へ、フーリェンは再び足を踏み出した。雪の匂いと石の冷たさが、彼を迎え入れる。
その瞳には、夜の底を見据える静かな光が宿っていた。




