第十章 冬の静寂に響く戦鼓2
転移の光が消えた先。そこにあったのは、地に伏した兵士たちと、崩れ落ちた砦の残骸だった。
重たい鉄の匂いが、鼻腔を刺す。血と煙と、乾いた土の臭い。どこか遠くで、軋む木の音だけが風に乗って鳴っていた。戦の痕跡──いや、虐殺の跡だった。
「……これは」
ライヤンが低く呟く。
フーリェンは周囲を見回しながら、慎重に足を進めた。倒れている兵士のほとんどが、外壁のあたりで事切れている。顔を見れば、どれも即死。防衛の構えを取る間もなく殺されたのだと分かる。
逆に、崩れた砦の内部では、武器を手にしたままの兵士たちの死体が散らばっていた。
迎え撃とうとしたのだ。だが、それでも敵わなかった。
「西の砦の兵力は、五十名ほどでしたね。巡回や他の駐屯地担当の兵を除いても、三十はいたはずですが…」
ライヤンが呟く。
「再編の影響で、多少の入れ替えはありましたが……ここに残されたのは中堅からベテランが多かったはず。即座に制圧され、援軍要請もできなかったというのは…」
フーリェンは一体ずつ、慎重に倒れた兵士たちの顔を確認していた。そこで、あることに気付く。
「……数が合わない」
「何ですって?」
フーリェンは立ち上がり、ライヤンと視線を交わす。
「若い兵士の姿がない。ここにいたのはベテランばかりじゃない。新兵も数人いたはずだ」
「連れ去られた、か」
「もしくは……まだどこかに生き残っているか」
言いながら、フーリェンはゆっくりと呼吸を整えた。彼の姿が、ふわりと光の粒となって揺らぎ、犬の獣人へと変化する。黒い毛並みと尖った耳。鋭敏な嗅覚を持つ、ライヤンと同じ犬種の獣人。
「行こう。痕跡を追う」
「はい」
二人は砦の外へと向かい、風下に立つ。血と煙の匂いに混じって、微かに――生き物の匂いが残っていた。
「……西、森の方角。距離はあるが…」
「向かいますか?」
フーリェンは頷く。
「この匂い……子どもも混じっている。生きているなら、急がないと」
ライヤンの目にも、静かな怒りが灯る。二人は一瞬だけ目を交わすと、同時に駆け出した。
風を切る音だけが、曇り空の下に響いていく。
乾いた風が頬を撫でる。丘の麓——焦げた匂いと土の匂いが入り混じるその一角に、フーリェンとライヤンは足を止めた。犬獣人の姿に変じたフーリェンの鼻先に、生きた人間の匂いが微かに届いていた。
木々に囲まれた窪地。その奥に、声にならない声がある。すすり泣く子ども。傷ついた若者たちの息遣い。
「……ここだ」
フーリェンが囁くように言い、木々の隙間を縫うようにして前へ出た。ライヤンもそれに続く。やがて視界が開け、小さな集団が現れる。
その場にいたのは、八人の若い兵士たち。装備のいくつかは破損し、顔や腕には傷と泥がこびりついていた。そのうち二人は自力で立てないようで、仲間に支えられるようにして座り込んでいる。彼らの周囲には、幼い子どもが三人。震えながら新兵たちの後ろに隠れるようにしていた。
ライヤンが一歩踏み出すと、兵士の一人が素早く剣に手をかけた。だが、フーリェンが一言「フェルディナ王国軍、第四軍のフーリェンだ」と名乗ると、張り詰めていた空気が一気にほどける。
「……応答がなかったので、全滅かと……!」
「よかった……助けが来たんですね……!」
新兵たちの表情が一気に崩れ、安堵とともに堰を切ったように涙を滲ませる者もいた。
「無事だったか」
フーリェンが短く声をかけると、兵士の一人が、口の端に血をにじませながらも立ち上がろうとする。
「すみません……俺たち、砦を守りきれませんでした……っ」
「……いや、むしろよく逃がした」
フーリェンはその手を取って支えながら、後ろに控えていた子どもたちの方へ視線を向ける。怯え切った子どもたちの中には、泣き腫らした目でフーリェンを見上げる少女の姿もあった。
「この子たちは?」
問うと、新兵のひとりが口を開く。
「村で……。砦を出たあと、王都に向かう途中で見つけました。……けど、どうしても見捨てられなくて……」
その声には、罪悪感と戸惑い、そしてどこか確かな決意が混ざっていた。
フーリェンはしばし黙ってから、ふ、と小さく息をついた。
「……判断は、間違っていない。僕も、その判断をする」
そう言って、フーリェンはライヤンに目を向ける。ライヤンは無言で頷き、転移のための準備を始める。
フーリェンは振り返り、傷ついた新兵たちと子どもたちを見渡す。
重たい曇り空の下、雪がひとひら、またひとひらと舞い落ちていた。焦げた匂いと血の気配を孕んだ空気の中で、フーリェンは状況を見定めるように周囲を見回す。
傍らでは、ライヤンがじっと彼を見ていた。ライヤンの能力では“全員”を運ぶには到底足りない。長距離の転移には、限界がある。
フーリェンはそれを承知の上で、静かに告げた。
「子どもたちと負傷兵を連れて、先に王宮へ戻れ。状況を報告して、援軍を要請するんだ」
ライヤンは転移の光を淡く漂わせながら、黙ってフーリェンを見つめた。
「……あなたはどうする?」
その問いに、フーリェンは短く、しかしはっきりと答える。
「僕はここに残って、本陣を立てる。周囲の索敵と防衛線の構築は僕が引き受ける」
そう言って、残された新兵たちに視線を移す。泥にまみれ、傷を負いながらも、剣を手放していない六人の若者たち。彼らはその視線を真っ直ぐに受け止めると、誰からともなく立ち上がった。
「……分かりました」
ライヤンは小さく頷き、幼い子どもたちを抱えるようにして中心に立つ。目の前の空間が割かれ、次の瞬間、三人の子どもたちと負傷兵と共に、彼の姿が掻き消えた。
残されたのは、灰色の空と、焼け焦げた地面、そして六人の新兵とフーリェン——ただそれだけだった。
風が吹き、雪が揺れる。フーリェンは息を整え、視線を巡らせる。敵が追撃してくる可能性は高い。だが、彼の瞳には恐れはなかった。
「ここからが本番だ」
その言葉に、新兵たちは強く頷いた。自分たちがまだ“生きている”という実感が、ようやく胸の奥に灯りはじめていた。