第十章 静かなる侵攻
どんよりとした雲が空を覆っていた。陽の光はひと欠けらも地に届かず、地表を湿らせた雪解けの泥が、ぐじゅりと靴底を飲み込む。
その曇天の下、一人の男が音もなく任務地へ降り立った。
虎の耳と尻尾を持つその男に、迷いはない。肩にかけられた黒布には、数字が縫い取られている
――“1”。
アドラ王国が誇る強化兵に与えられる、無機質な数字。感情のない命令装置。王国の意志を代行する生きた兵器。
その目の前には、フェルディナ王国・西の砦。
外壁は堅牢、番兵は複数。だが――それはただの“外見”に過ぎなかった。
次の瞬間、砦の入口に“兵士”が現れた。見張りと同じ制服、同じ装備、同じ顔。
仲間だと思った瞬間、喉元に土の槍が突き立つ。兵士が呻く暇もなく、土に還る。
男の影が揺れるたび、精巧に模された人形が現れては、殺し、姿を変える。
誰が味方で、誰が敵か。混乱の中で砦は一瞬にして機能を喪失した。
「……任務開始」
誰に向けるでもなく、無機質な声が口から漏れる。
その口元には、血の飛沫すらついていない。風が吹く。曇り空の下、砦から煙が上がりはじめていた。
同時刻。――もっと南、国境沿いのとある村。
雪を踏む音さえ聞こえぬほど、空気が凍りついていた。
村の中心、まだ囲炉裏の煙が立ち上る中に、ふたりの影が静かに歩いていた。
双子の狼獣人、2号と3号。
その足元には、既に倒れた村人たちが何人も転がっている。
誰も、声を上げる暇もなかった。雷のような速度で駆け、雷の刃のように斬り裂く。
老いた者も、女も、若者も。命の重みなど、そこには存在しなかった。
ただひとり、倒れ損ねた小さな影があった。まだ幼い、赤毛の子ども。怯え、泣き叫ぶ。
「やだ……たすけて……おかあさん……っ」
懇願するように、両手を差し出して。
しかし、3号は止まらない。何の表情も浮かべず、ただ、命令をなぞるように、手を振り下ろした。
ずるりと音がして、雪がまた赤く染まった。
村は、風の音しか残らない無人の墓所と化していた。
そして、さらに遠く離れた別の村落。薄く積もった雪を踏みしめる、重く低い足音。
そこにいたのは、小柄な羊の獣人――4号。
短い脚。華奢な肩。だがその背には、人の肩幅を超える巨大な斧。
振り上げたときには既に、巡回に出ていた兵士の身体は破砕されていた。
骨も、内臓も、肉も。まるで玩具のように、ぐちゃりと崩れ落ちる。
「……まず一人」
短くそう呟いた4号の手は、肘の先まで赤く染まっていた。
額に飛んだ返り血を、何の気にも留めぬまま、彼は再び歩き出す。
淡々と、無感情に、次の目標へと。
雲は晴れない。
空は、彼らを咎めることすらしないまま――ただ、沈黙していた。