第十章 約束
薬の騒動がようやく収まり、王宮には久方ぶりの穏やかな空気が戻っていた。
曇り空の下、訓練場では、少しだけ特別な時間が流れている。冬の寒さを纏った空気の中、中央に立つ一人の狐獣人が、四方から兵士たちの視線を一身に受けていた。
「……そんなに食い気味に見るな」
ぼそりと文句を漏らしながらも、その耳がわずかに伏せられているあたり、彼なりに覚悟を決めているのがわかる。
第四軍隊長、フーリェン。
兵士たちの前では寡黙な彼が、今日、ある“約束”を果たそうとしていた。
「だって、言ったじゃないですか! 全員がちゃんと回復したら、能力を見せてくれるって!」
「そうですよ隊長! ちゃんと治ったんですから!」
つい先日まで薬の影響に苦しめられていた新兵たちは、今や晴れやかな表情を浮かべている。その中には、かつてフーリェンに反抗的だったオスカーの姿も、憧れの眼差しを向けるリオンの姿もあった。
「言っておくが、僕の能力は、派手なものじゃないぞ」
フーリェンが言うと、周囲は一瞬だけ静かになる。
「“変化”。身体の一部を、視認した者や、見たことのある他種族の特徴に変える。ただし、一度に真似できるのは一つだけだ」
そう言って、彼はゆっくりと外套を脱いだ。風にたなびいた白狐の尾と、毛並みの揃った耳が、微かに揺れている。小さく息を吐いた次の瞬間。フーリェンの背中を走る筋肉が盛り上がり、尾の色がじわじわと変化し始めた。
白から、灰銀へ。
もこもことした狐の尾が、しなやかな狼の尾へと変わり、その形に連動するように耳もまた、鋭く長い狼のそれに変化する。
「……狼」
オスカーがぽつりと呟いた。
「あっ……第二軍隊長の!」
リオンが驚きの声を上げる。
そう。これはフーリェンが最も得意とする模倣対象――灰銀の狼、シュアンランの特徴だった。
狐の面影はどこかへ消え、そこに立っているのは、すらりとした体躯と鋭い眼差しを持つ灰銀の狼獣人。フーリェンはその姿のまま、一歩前へ出る。
「狼の特性は、筋力と機動力のバランスに優れる。これは接近戦での応用が利きやすい」
そう説明しながら、地を蹴った彼の動きは、見慣れたそれとは違っていた。
手にした剣を振る姿も、いつものしなやかな動きとは違い、一つ一つの動きが重く、だが素早い。
フーリェンは、狼の耳を小さく揺らして兵士たちに向き直った。
「次は――」
再び姿が変化していく。灰銀の毛は白に戻り、耳が縦に大きく伸びる。狼の尾が短く丸くなり、膝の角度がわずかに変化する。
今度は、白兎。
兵士たちはその姿に声を上げる。
「うさぎ……?」
「なんだ、かわい――」
その言葉が終わる前に、フーリェンの身体が地面を蹴って跳んだ。
「っ……!? 高っ!!」
白い影が一閃。柱の上部にまで跳び上がったかと思えば、そのまま着地せず、柱の先端に片足をかけて静止する。全身に力みはなく、耳が風をとらえてひらりと舞う。
「これは、主に偵察や陽動向け。重量のある敵に対しては不利になるが……跳躍力と脚力は、地形が制限される戦場では強みになる」
フーリェンはそのまま、ふっと地を蹴って降りた。軽やかな音だけが残る。
「……すごい」
誰かが、ぽつりと呟く。
その声が引き金になったように、周囲から拍手と歓声があがった。
「……言っただろ。派手じゃないって」
耳を伏せながら、フーリェンは地面に落とした外套を拾い上げる。
口々に感想を漏らす新兵たちの中心で、リオンがふと、真剣な表情で言った。
「……隊長って、どれだけ“相手”のことを見てるんですか?」
その問いに、フーリェンは静かに微笑した。
「――見ないと、使えない力だからな」
彼の能力は、他者の力を盗むものではない。ただ「見る」こと。視て、理解して、身体に刻むこと。その行為が、“変化”という形を生む。
「筋肉の動き、体重移動の仕方、癖……視覚から得られる情報は、全て取り込むつもりで見る。…それが、僕の戦い方だ」
そんな彼の言葉に、新兵たちが息をのむ。
そんな一瞬の空気のぴりつきを和ませるように、フーリェンは大きく伸びをした。
「さて、今日はもう終わりだ。…明日からは通常訓練に戻る」
「えぇ~!」
いつもの口調で、いつものフーリェンに戻ると、兵士たちもそれぞれに笑って訓練場を後にした。
兵士たちは口々に感嘆を漏らし、訓練場はいつになく賑やかな空気に包まれる。
冗談交じりの言い合いが飛び交い、笑い声が響く。
その中心に立つフーリェンは、いつものように無表情を装いながらも、どこか肩の力が抜けていた。
隙のないその横顔に、ほんのわずかだが、柔らかい光が差している。
騒がしくも無邪気な声。痛みのない笑顔。信頼と敬意が入り混じった視線。
──ほんの少し前までは、それすら失われかけていたのだ。
彼は小さく息を吐く。
(少なくとも今は、守れている)
そう思える時間が、どれほど貴重かを、フーリェンはよく知っていた。
それが“日常”というものであり、そして、常に脆く儚いものであることも。
耳の先が、風にかすかに揺れた。彼は小さく首を横に振り、兵士たちの喧騒から一歩だけ離れる。
「隊長、ありがとうございました!」
「また見せてくださいね!」
「今度は……虎型とか、鷲型も!」
後ろから投げかけられる声に尻尾を軽く振って応えると、彼は訓練場の出口へと歩き出した。
だが――それは、雲間から覗いたわずかな光に過ぎなかった。
空には、低く、重たげな雲。
冷え込む風の匂いは、どこか遠くで何かがひそやかに崩れはじめていることを告げていた。
それでも、いまはまだ、笑い声がある。仲間たちの声がある。
平和な日常。
そう――この時までは。