間章 母
王宮の中庭を越え、さらに奥へと進むと、人の気配の消える静寂が広がっている。
冬の始まりを告げる冷たい風が、乾いた枯葉をさらさらと揺らし、道の先に佇む石の群れへと誘うように吹き抜けていく。
ここは、王族のみが眠ることを許された、王家の墓所。
代々の王と、選ばれし者たちが眠るその場所は、荘厳というより、どこか儚げで寂しさを帯びていた。
その墓の前に、黒い外套を羽織った一人の男が、静かに膝をついていた。
風に揺れる金の髪、凛とした背筋。そして手にした白い花束。
「最近、顔を見せれていなくて、すみません」
低く穏やかな声が、冷えた空気に溶けていく。
第二王子――セオドアの口から漏れたそれは、まるで生きた人へ語りかけるような、丁寧で優しい響きだった。
彼の視線の先、石に刻まれた王家の紋章。その下に並ぶ幾つもの名前の中で、最も端に刻まれた、小さな文字。
《ジュアン》
その名の上に、セオドアの指がそっと触れた。
雪のように冷たい石の感触を、彼はどこか懐かしげに感じながら、静かに目を伏せる。
「寒くなりましたね。あれから、もう三度目の冬です」
王宮のどこよりも冷たい風が、セオドアの外套の裾を揺らし、手にした花を優しく撫でる。
彼の母、ジュアンは三年前、この地に葬られた。元は王直属の護衛だった女。王の傍を離れることなく、剣を持って立ち続けた凛とした姿。その姿を、セオドアは今でも鮮やかに思い出す。
ジュアンは、王家の名に連なる者の中では異質な存在だった。
女性であるにも関わらず、直属護衛として任命され、並みいる男たちと共に戦場にも立った。
そして、何よりも――彼女の血には、ヒューマンに混ざって獣人の血が流れていた。
「……あの頃は、母上がどれほど強い人だったか、まだよく分かっていませんでした」
石碑を見つめる目は、どこか後悔を滲ませていた。
彼女が側室となったのは、王に見初められたからだと人は言った。
けれど真実は、あの人が、どこまでも忠義に生きた護衛だったからだ。主に命を捧げる覚悟を持ち、護衛として、そして母として、最期まで己の役目を果たした。
「俺たち兄弟が生まれたとき、王宮はざわついたと聞いています。混血の皇子。前例のない存在。……でも、母上はそんな声に、一切耳を貸しませんでしたね」
自身も弟のユリウスも、ヒューマンの姿をしていた。
けれどその血の中に、紛れもなく“混ざり物”があると知れ渡れば、王家という閉ざされた檻の中では、標的になり得る。
「それでも、あなたは俺たちを守り、育ててくれた。……どんな目に晒されても、決して手を離さなかった」
花を石の前に置き、セオドアはそっと目を瞑る。
その仕草は、王子としてより、一人の息子としての祈りだった。
あの冬の日の記憶は、未だに胸の奥に棘のように残っている。
王宮内で起きた、意味の分からない暴走。狙われたのは、当時まだ七歳だった末の王子――オリバー。
彼女は、側室でありながら、傍仕えとして幼い王子を守る役を担っていた。そして……自身の子ではないその命を、我が身を盾にして守り抜いた。
「俺たちの血を疎んだ者たちが、あなたを奪った。皮肉ですね。あなたはその“疎んじられた血”を使って、他者を守ったのだから」
彼女の死は、王宮に大きな波紋をもたらした。
王都は深い悲しみに沈み、貴族たちの中には動揺を隠せぬ者もいた。
だが――本当の意味で、その死の意味を知る者は、どれほどいたのだろう。
「あなたの死に、意味はあったんでしょうか。救ったはずの命を、誰が守ってくれるというんですか。……母上がいなくなって、俺はずっと、その問いの中で生きてきました」
冷たい風が再び吹き抜けた。
けれどセオドアは、外套の前を閉じようとはしなかった。
むしろ、その冷たさを受け入れるように、目を閉じる。
――“あなたは、立派な王子になりますよ”
昔、そう言って微笑んだ母の声が、今も耳に残っている。自分のことよりも、常に誰かのことを思っていた女。弱さを見せぬ背中に、何度も心を預けた。
「母上。……俺は、あなたに誇れるような男になれてますか?」
そう問いかける声には、震えがなかった。
ただ静かに、まっすぐに、母へと向けられた敬意と愛情が込められていた。
「俺は……王になりたいとは思いません。その役はアルフォンスが担えばいい。でも、あなたの名を汚さぬよう、生きていきたいとは思っています」
そう告げたあと、セオドアは立ち上がった。墓前に手を合わせ、そしてひとつ深く頭を下げる。
風は止み、墓に添えられた白いリェンの花だけが、風もなく揺れていた。