第九章 行方不明者
第九章 薬物騒動編 完…?
翌朝、外はちらちらと雪が降っていた。
白く覆われた村の屋根を見上げながら、ジンリェンとランシーは再び外套を身にまとい、村の中を歩き回った。この村に残る人々の記憶に、エリクという男は確かに存在していた。
「よく手伝いに来てくれてたよ。器用な子だったなぁ」
「うちの娘とは同い年でね、昔は一緒に川で遊んでたもんさ」
「たしか、王都に行ったって聞いたけど……何かあったのかい?」
老婆の言葉だけではなかった。何人もの村人が、彼の姿を思い出し、断片的ながらもエリクとの接点を語ってくれた。だが、そこまでだった。
彼がいつ王都へ旅立ったのか。その理由は何だったのか。そして、それ以降どこに行き、今どこでどうしているのか――誰ひとり、確かなことは知らなかった。
「まさか、ここまで手掛かりが無いとはな……」
村の外れにある畑の脇で、ランシーが息を吐いた。
ジンリェンは無言のまま地図を見つめた。王都への道筋をなぞりながら、何の役にも立たなかったこの二日間の探索を思い返す。
「エリクは実在する。だが、何も残していない」
「……いや、存在したこと自体は確認できただけ、進展ではあるか」
ジンリェンの声に、ランシーはわずかに頷いた。だが、その表情に明るさはなかった。
雪が再び降り始める。冷たい風が二人の肩を打ち、静かな村に淡い白を積み重ねていった。
「……帰るか」
「ユエとアドルフの方に、望みをかけるしかないな」
二人は、最後にもう一度だけ老婆の家を振り返った。
あの小さな家の中で、老婆は今日も静かに火鉢を囲んでいるのだろう。帰ってこない孫を想いながら――。
何も知らぬように、何も語らぬように。それでも、確かにそこにあったはずの“誰か”の面影を胸に。
その背を後にして、ジンリェンとランシーは王宮へと足を向けた。新たな答えを探しに、また別の場所へ。
遠ざかる村の影に、二つの行方不明が静かに溶け込んでいった。
**
王都に戻ったのは、日が完全に沈む少し前のことだった。赤黒い空が城壁の向こうに揺れている。衛兵に通されるまま王宮の西棟へ向かうと、ユエとアドルフがすでに二人を待っていた。
「おかえりなさい。そっちは何か収穫ありましたか?」
廊下の片隅、誰も通らぬ書庫前の小部屋で、簡易な報告会が開かれた。アドルフが出してくれた温い茶を手に、ジンリェンとランシーは肩をすくめる。
「いたにはいた。エリクって名前の男。村人の話から、存在してたのは確かだ」
「ただ、肝心の本人がいない。何の手掛かりも、残っちゃいなかった」
その報告に、ユエは小さくため息をついた。
「……似たようなものです。こちらも、例の人物について調べてみましたが――」
「エルドの記録は、どこにも存在しなかった」
「は?」
ジンリェンが眉をひそめる。
「登録簿、診療記録、部屋の割り当て……医務棟に関わるあらゆる文書を洗ったが、エルドという名はどこにもなかった」
「つまり“誰も”存在を記録していないってことだ」
「まじかよ……」
ランシーがぼそりと呟く。騒動中で見つけた記録簿。その中に書かれていた身元不明の人物。王宮内のあらゆる文書や記録を洗い出してもなおその正体が掴めないとなると、浮上する可能性はもはや一つしかない。
――王宮内にいた誰かが、書面上で「エルド」に成りすましていた。
「ただ、一つだけ進展がありました」
ユエの言葉に、全員の視線が向けられた。
「数日前から、医務官の一人が行方不明になっています。エリーゼという名のヒューマン。黒髪で、頬に目立つそばかすがある女です」
その名前に、ジンリェンとランシーがほぼ同時に顔を上げた。
「……知ってる。よく見かけてた奴だ。おとなしくて、黙々と働くタイプだったな」
「調剤の担当だったっけ。薬棚のチェックもしてた」
「その通り。エリーゼは主に調剤薬草の仕入れや在庫管理を任されていたみたいです。問題は……ロズニカ根の件について」
「――!」
思わず、ジンリェンとランシーが目を見合わせた。
あの日、騒動の収束の糸口を見つけるために調べた薬品の在庫。中でも数が合わなかったのが、ロズニカ根だった。
「不一致が分かったタイミング……近い時期にエリーゼが失踪……」
ランシーがぼそりと呟き、椅子の背に体を預けた。
「エルドとエリーゼは同一人物?」
沈黙が落ちる。まさか、と誰も口に出さない。だが、今のところ最も筋が通る仮説でもあった。
アドルフが低く呟いた。
「どうやって医務官として王宮に潜り込んだのか…目の多いここで暗躍できた理由までは分からないが…」
「ここで、記憶の改ざんの件がちらつくわけか」
ジンリェンの声が、静まり返った部屋に響いた。
「そしてまた一人、行方不明者が増えたとも言えるわけだな」
疲労を隠さぬ声でランシーがため息をつく。
「それでも、並べる順番だけは見えてきた。まずは――この“エリーゼ”って人物が鍵だ」
部屋の外では、夜番の兵が交代の時を告げる足音が響いていた。その音に追われるように、今夜の報告は終わりを迎える。静かに立ち上がったジンリェンの目に、先ほどまで雪の中を彷徨っていた焦燥とは違う、確かな“光”が宿っていた。
「浮上したエリーゼの行方は、引き続き俺たちが追う。それでいいな?」
そう告げるアドルフに、ジンリェンは深く頷いた。
少しずつだが、霧の向こうに輪郭が現れ始めている。糸口は、確かに見え始めた。だが同時に、その先に待つ真実が、想像以上に深く暗いものであることも、彼らはすでに感じ始めていた。