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王宮の獣護  作者: 夜夢子
第9章
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第九章 笑えない状況

老婆の話がひと段落したあと、二人は母屋の裏手にある離れの小部屋に通された。古びた板壁と簡素な戸棚。かつては納屋だったのかもしれない部屋には、今は新しい敷き藁と火鉢が置かれ、最低限の寝具も用意されていた。


「寒くなったら、囲炉裏に火を入れるといいよ。あんたたち、ゆっくり休んでおくれ」


老婆はそう言って、扉を閉めると足音を引きずるようにして去っていった。静寂が戻る。戸の向こうは、深く冷たい夜の気配に満ちていた。ジンリェンは部屋の中央にあった火鉢に、小さく炎を灯す。掌から溢れるように現れた炎が、優しく赤い光を投げかけた。


「……さんきゅ」


ランシーがそう呟いて、隣に腰を下ろした。広い肩を少し落とし、眉間には深い皺が寄っている。


「それにしても……参ったな」

「エリクの行方、まったくの手詰まりだな」


ジンリェンは炎を見つめたまま、ぽつりと口を開いた。静かながらも、声にかすかな苛立ちが滲んでいる。


「俺たちは、身元不明の医務官――エルドの素性を探るためにここへ来た。その手がかりがエリクで、彼がこの村出身だと知って、わざわざ来たというのに……」

「肝心の本人がいない。しかも、もう何年も、帰ってきてすらいない」


ランシーの声も低く沈んでいた。手を火鉢にかざしながら、わずかに首を振る。


「おまけに、これで“身元不明”が一人から二人に増えたわけだ。エルドに、エリク」

「冗談じゃないよな」


ジンリェンは肩をすくめるが、その目は冗談を口にするような軽さではなかった。燃える火を見つめながら、彼はゆっくりと言葉を継いだ。


「エリクが消息を絶ったのが、三年前。文官見習いとして王宮の附属施設にいたと聞いていたが、それ以降、何の記録も残されていない」

「手紙も来なくなったって婆さんは言ってたな。最初は忙しいんだろうと気にしてなかったらしいが……」


ランシーが、苦々しい表情で額に手を当てる。


「それが三年も、だ。何かがあったと考えるべきだろう」

「事故か、意図的な失踪か……あるいは、誰かに“消された”のかもしれない」

「まさかとは思いたいがな」


言葉を交わすたびに、炎が静かに揺れた。まるでそれが、二人の胸中を映しているかのように。


「結局、何もわからなかった。会えると思っていた人物が、そもそも存在していない」

「情報を追って辿り着いた先が空振りとは……まったく、やりきれねーな」


ランシーは肩を落とし、火鉢の側に置かれた薪を一本くべた。小さく火の粉が跳ねる。


「……とはいえ、ここまで来たんだ。明日、村の外れも回ってみよう。ばあちゃんの言う“昔の遊び場”や、エリクが使っていたという小屋も気になる」

「ああ。少しでも何か……痕跡が残っていればいいが」


そう言って、ジンリェンは背を壁に預けた。

火が、ふたりの顔を赤く染め、部屋の影を深くしていく。静寂の中、燃える薪がぱちん、と音を立てた。

それは、進むべき道が霧の中に沈み込むような音だった。


行方不明に、記憶の欠如。

王宮で起きている出来事としては、あまりに同時多発すぎて――笑えない。


「……笑えねぇよ、本当に」


ぽつりと、ジンリェンがつぶやいた。

唇に触れた言葉が、どこか苦味を含んで揺れる。


焚火の揺らめきに目を細めながら、ジンリェンは隣のランシーに視線を向けた。


「……ランシー。お前」


静かに口を開いたその声に、ランシーはちらと目を向けた。その目は、どこか悟ったような――あるいは、構えるような光を宿していた。


「お前も、だよな。……記憶、すっぽり消えてるんだろ」


言葉は静かだったが、その奥にある不安と警戒は隠しようもなかった。もしかしたら、ランシーも“何か”に巻き込まれたのではないか。そう思わずにはいられなかった。


だが――ランシーは、すぐには答えなかった。

炎を見つめ、じっと考えるように唇を結んでいた。


やがて、低く静かな声が漏れる。


「……ああ。確かに記憶が飛んでる」

「いつから、どこまでが曖昧なんだ?」

「正直に言えば……俺自身も、よくわからない」


少し間を置いて、ランシーは深く息をついた。そして、苦笑まじりに肩をすくめる。


「気づいたら、ベッドの上だったしな」

「……身体に異常は?」

「外傷はなかった。毒の類も出なかった。でも、……頭の奥が、ずっと鈍い。寝起きに見る夢みたいな感覚が、今でも拭えない」


その言葉に、ジンリェンは黙り込んだ。


「お前自身は……それをどう思ってる?」

「誰かに何かをされたんだろうな。確信はねぇけど…」


ランシーの声は淡々としていたが、その瞳の奥には、確かに揺らぎがあった。強く在ろうとする兵士の仮面の奥で、何かが微かに崩れかけている。


「まあでも、消されなかっただけ、万々歳さ」


ランシーは、そう言って少し笑った。ジンリェンは、何も言わなかった。ただ、そっと火鉢に薪をくべ、揺れる火の中に視線を落とした。


まるでその小さな炎が、二人の心の隙間を繋いでくれることを祈るように。

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