第九章 探し人
ランシーとフーリェンが語り合ったあの夕刻から、数日が経っていた。
白銀の朝、北門の前に立つ二つの影。風を防ぐための厚手の外套に身を包み、ジンリェンとランシーは、吐く息を白く漂わせながら門が開くのを待っていた。
ランシーの手には、王宮から取り寄せた地図と、手書きの名簿が一冊。その名簿の一行に記されていたのが、「エリク」という名だった。
――王宮の医務記録を洗う中で浮上した、不自然な記録。「エルド」という、存在しない医務官の登録申請を通した若手の文官。その名が、このエリクだった。
「療養中で出仕していない、ってのは口実かもしれないな」
「だからこそ、直接確かめに行くしかないってわけだ」
静かな会話を交わしながら、二人は北門を抜け、雪の降りしきる道へと足を踏み出す。目指すは、王都から北へと半日――地図にも小さくしか記されていない、名もない村。
村に着いたのは、日も傾き始めた午後のことだった。遠くで薪を割る音と、家畜の鳴き声が風に混じる。村の外れに建つ古びた家屋の前で、二人は足を止めた。
小さな木の表札には、薄れかけた文字が刻まれている。道すがら出会った村人の話では、ここがエリクという名の青年の家だという。
ランシーが戸を軽く叩く。木製の扉がぎしりと軋む音とともに、ゆっくりと開かれた。
「……はい?」
現れたのは、背をすこし曲げた、白髪の老婆だった。年齢は七十を越えているだろうか。深い皺の刻まれた顔には、しかし穏やかな光が宿っている。
「突然の訪問を失礼いたします。王都より、エリク殿の件で、少々お話を伺いたく……」
ジンリェンが礼を取るように一歩前に出ると、老婆は少し首を傾げ、目を細めた。
「エリクを……? あの子に、なにか?」
「いえ、いくつか確認させていただきたいことがありまして。現在、彼は自宅療養中とのことで、名簿に記録がありました。ですが、村の者に尋ねても、姿を見た者がいないようでしたので……」
老婆はその言葉に、そっと目を伏せた。ひとつ、長く深い息をついて、呟く。
「そう……やっぱり、あの子は王都で……何かあったんだね」
言葉の端に滲むものに、ランシーが慎重に口を開いた。
「エリクさんは……ご家族で?」
「孫です。私の、たった一人のね」
老婆はそう言って、家の奥に目をやった。その眼差しにこめられた温もりと切なさに、ジンリェンもランシーも、すぐには言葉を返せなかった。
「まあ、外は寒いでしょう。立ち話も何ですし……よければ、中へ」
老婆の申し出に、二人は丁寧に頭を下げて家の中へと招かれた。こぢんまりとした家の中は、木の香りとわずかに乾いた薬草の匂いが漂っていた。囲炉裏の火はすでに落ちかけていたが、老婆が手際よく火をくべ、やかんに湯を沸かし始める。
「すぐにお茶が入るよ。ほんとうに、あの子に何かあったのかい? ……まさか、悪いことに関わっていたんじゃ……」
心配そうな老婆の問いかけに、ジンリェンは首を横に振った。
「いえ、そのような断定はまだしておりません。ただ、王宮に関わる記録にエリクという人物の名が出てきて…。それが正規の記録と整合しない部分があったため、確認に伺った次第です」
「……そうかい」
老婆はそっと頷くと、用意していた湯呑みに熱いお茶を注ぎ始めた。その手元を眺めながら、ランシーが何気ない調子で問いかける。
「エリクさんは、いつ頃までこちらに?」
「もう、七年ほど前になるりますかね。十七で村を出て、王都の学校に行ったよ。あの子は手先が器用でね、怪我をした動物なんかをよく世話していた。村人たちにも可愛がられてたよ」
語る老婆の顔には、遠い日の誇らしさがかすかに浮かんでいた。ジンリェンは静かに相槌を打ちつつも、慎重に次の言葉を選ぶ。
「その後は……お戻りには?」
「それがねえ……最初のうちは手紙も来ていたんですよ。学校のこと、王都の暮らし、研修で文官見習いになったって……でも、三年前から、音沙汰がなくなって」
老婆の声がふと、翳りを帯びた。
「もしかしたら、あの子、何かに巻き込まれたんじゃないかって。でも……信じたかった。信じていたいの。あの子は、ちゃんと生きてるって」
囲炉裏の火が、ぱちりと小さく爆ぜた。
沈黙が落ちた空間に、薬草茶の香りだけがふんわりと漂っている。老婆の手の皺のひとつひとつに、祈るような月日が刻まれているようだった。
それを見つめながら、ジンリェンもランシーも、あえて言葉を挟まず、ただその語りを受け止めた。
やがて、老婆はふっと顔を上げて笑った。
「泊まるところなんて、ないんでしょう? よければ、うちに泊まっていきなさい。部屋は狭いけど、布団くらいはあるから」
「助かります」
ジンリェンが深く頭を下げる。ランシーも続いて礼を述べた。