第九章 ランシー2
重く沈む沈黙が、二人のあいだに満ちていた。
ランシーは回想からそっと意識を引き戻すと、隣に座るフーリェンへと視線を向けた。その横顔はどこか遠くを見つめるようでー
「……」
フーリェンは、ただ一点を見つめていた。何を考えているのかは分からない。ただ、深く、長く、思考の底に沈んでいるのは感じ取れた。
そして、やがて――
ぽつりと、小さな声が落ちた。
「もし、そうなったなら……僕は、ルカ様を、選ぶと、思う……」
か細い声だった。自信などまるでなかった。けれど、それは確かな意志だった。その言葉の奥にあるのは、忠誠でも義務でもない。――守りたいものを、選ぶという覚悟。
ランシーは少しだけ、口元を歪めた。それが寂しさだったのか、安堵だったのか、自分でも分からない。だから、つい言葉に棘が混じった。
「それは、ジンや、シュアンを裏切っても?」
分かっていた。彼が答えに困ることも、それを悩んで、言い淀んだことも。けれど、聞かずにはいられなかった。たとえ、それが意地悪だと分かっていても。
フーリェンの耳が、しゅんと垂れた。しっぽを両腕に抱え、小さく縮こまるようにして、下を向いた。
「……分からない」
その声は、先程よりもずっと弱くて、不安定で、どこか震えていた。きっと彼は、本当に“裏切る”という行為を想像できないのだろう。それだけ、彼の中では、誰もがかけがえのない存在になってしまっている。
ランシーは、そっと笑った。
肩に手を置き、優しく叩いてから、視線を落とす。
「悪い。……意地悪な質問だったな」
そう言って、立ち上がった。小さく伸びをして、腕を組み直す。夕陽が、彼の背から差し込んできて、黄金色の縁取りを髪に与えていた。
「主と国を天秤にかける日がもし来たなら、俺は――たぶん、間違える。迷わず、間違える」
笑っているような声音だった。けれどその笑みに、悔しさも、諦めも、全部詰まっていた。
フーリェンは思わず目を細めた。逆光の中に立つランシーの顔はよく見えない。ただ、その存在だけがはっきりと光に浮かんでいた。
「なぁ、フーリェン」
珍しく、真剣な声音だった。名を呼ばれたフーリェンは、少し驚いたように顔を上げる。
「なに?」
そう答えようとした刹那――
「もし、俺が道を踏み外したら」
低く、けれどはっきりとした声が割って入った。
ランシーは一度、静かに息を吸い、吐く。そして、言葉を続けた。
「お前が、俺を殺してくれ」
それは、冗談でも脅しでもない。
ただの願いであり、約束だった。未来のどこかで、もしその瞬間が来るならば――自分を正せるのは、この狐しかいないと、彼は信じている。
静かな風が、二人の間を通り抜けた。
夕陽が、赤く、地平を染めていた。
(過去談)
王宮の獣護-日常- ep.5 兵士と直属護衛