第九章 ランシー
ランシーはふと視線を上げ、人気のなくなった訓練場の隅を見渡した。そして、ゆるく立てていた片膝の横を、ぽんぽんと叩く。
「なぁ、ちょっと付き合えよ」
指先で示すように、そこをもう一度叩いた。座れ、という意志を言葉にせず伝えるその動作は、妙に自然で、妙に親しげだった。
フーリェンは一瞬だけ首を傾げたが、すぐに黙って隣に腰を下ろした。音ひとつ立てず、狐の尾が静かに揺れて落ち着く。じっと横顔を見ると、フーリェンは不思議そうに、瞳だけをこちらに向けていた。
「……?」
何も言わぬまま、問いかけるようなまなざし。
そのまなざしに、ランシーは小さく息を吐いた。
周囲に人の気配がないことをもう一度だけ確認すると、ふと視線を落として口を開く。
「……ちょっと、真面目な話なんだけどさ」
それだけで、フーリェンの耳がぴくりと動いた。緊張ではない。ただ、いつもより少しだけ意識を尖らせたような動き。それを横目に捉えながら、ランシーはしばらく迷うように水筒を手の中で転がした。
やがて、ぽつりと。
「もし、敬愛する主と……この国、そのどっちかを天秤にかけなきゃいけなくなったら」
そこで言葉を区切る。軽い声音だったが、その裏にあるものは冗談ではなかった。
そして。
「お前なら、どうする?」
その問いを、まっすぐに投げかけた。
目は、逸らさずに。声も、濁さずに。真正面から。
言葉が空気の中で溶けていく。
すぐに返ってくる答えを、期待していたわけじゃない。けれど、隣に座る白狐は、しばし何も言わず、ただ微かに眉を動かしただけだった。
静かな沈黙が落ちる。
訓練場の隅に吹く風が、遠くの雪をわずかに運んできた。
ふと——。
ランシーの脳裏に浮かんだのは、もっと冷たかった冬の匂いだった。
——あれは、いつの冬だったか。
今よりもずっと寒く、風は尖っていて、夜には薪すら惜しむ日々。西の国境沿い、名も知られぬ小さな村。いや、今となっては、名すら残らない、無き村だった。その村で、ランシーは育った。
獣人であることに特別な意味はなく、ただ人と同じように日々を生きて、土を耕し、兄弟と笑って過ごしていた。けれど、隣国との度重なる戦火は、静かな暮らしをひとつずつ奪っていった。
ある年、村は襲われ、焼かれ、奪われた。
気づけば、屋根は落ち、壁は砕け、人は去り、廃村という名ばかりが残った。
それでも、ランシーは生き残った。
生まれつき持ち合わせた能力を使い、瓦礫を片付け、凍える子供に暖を与え、時には薪を運び、農家の手伝いをして、わずかな食べ物や硬貨を分けてもらいながら、飢えを繋いだ。
兄弟は、かつて自分を含めて四人いた。
年の離れた末っ子も、いつも泣いてばかりいた次男も、やがて一人、また一人と、寒さと飢えに奪われていった。
気づけば、自分ひとりが残っていた。
——だけど、泣くことはなかった。
死んでいった兄弟たちが、最後まで、笑っていたからだ。
「兄ちゃんが、泣いてたら、つまんねぇじゃん」
そう言って笑った声が、今も胸の奥で響いている。
だから決めていた。
兄として、死ぬまで笑っていようと。
それが、自分に残された、たったひとつの矜持だった。
そんな折だった。転機が訪れたのは。
王都から来た使節団。大きな荷馬車と、白い旗。
大量の物資と兵士を引き連れて、まるで祭りのように華やかな集団だった。瓦礫の陰から眺めるだけのつもりだった。けれど、その一団の中に、妙に目を引く少年がいた。
——銅色の瞳。陽の光を散らすような、綺麗な金髪。
一目で分かった。この国の、王族だと。
目が合った気がして、慌てて視線を逸らした。
だが——次の瞬間、その少年は、ためらいもなく瓦礫を越え、こちらに近づいてきたのだった。
泥まみれの自分に、戸惑いも侮蔑も見せず、まっすぐに目を合わせて。そして、こう言った。
「君、僕の兵にならない?」
あまりに唐突で、思わず笑いそうになった。
何を言ってるんだ、この坊っちゃんは——と。
でも。
その声は、どこかあたたかくて。
その瞳は、まるで太陽の中にいたみたいで。
気づけば、自分は反発することも忘れて、ただ頷いていたのだった。
あれが、始まりだった。
王国軍、第三軍、ランシーという名前の兵士——そのすべての出発点だった。