第九章 いつも通り
朝。霧のように白く霞む訓練場には、既に若い兵士たちの声が響いていた。ランシーは外套の裾を揺らしながら、第三軍の列の端に立っていた。腕を組み、いつものように目を細めている。
何事もない朝――表向きは。
「ほら、そこ。足の運びが一歩ずつ遅れてるぞ、体幹の軸を意識しろ!」
声を張ると、列の中央で抜刀の動きをしていた兵士が、ビクリと肩を震わせた。ランシーは一歩進み、抜刀から納刀の流れを実演して見せる。まっすぐな体勢のまま、無駄のない動きで、軽やかに剣を抜き、振り下ろす。
兵たちの視線が集中する。だが本人は、さほど気にした様子もなく、「こうだ」とだけ言い残して列の端へと戻った。
――動きに支障はない。
息も上がらず、関節の動きも滑らか。昨夜まで倒れていた者とは思えない、いつも通りの身のこなし。
それが、逆に――気持ちが悪い。
(本当に、何だったんだろうな……)
頭の奥が、靄のように重たい。明確な痛みはない。けれど、昨日の夜の記憶が、まるで夢でも見ていたように曖昧だ。門番と交代して、回廊を巡回して――そのあと。
確か、誰かを――何かを、追いかけたような気がする。足音がしたような。声をかけたような。でも、それも幻想だったかのように、形を持たない。
記憶の改ざん――。
ふと、その言葉が脳裏をかすめた。その瞬間、思い浮かんだのは、銅色の瞳をした主の姿だった。臆病なのに、出る時は出る。何より誠実なその主が、もし、自分に何かを――。
「……いや、まさか」
呟いた声を、吐く息がかき消していった。
ランシーは頭を一度振り、目の前の訓練場に視線を戻す。今は、目の前の任務に集中すべきだ。だがその背後には、拭いきれぬ一抹の違和感が、静かに尾を引いていた。
訓練が終わる頃には、冬の日差しがわずかに差し込んでいた。雪混じりの風はまだ冷たいが、兵たちの頬に汗が残るほど、動きは熱を孕んでいる。
ランシーは訓練場の隅、影の落ちる石積みの腰かけに身を預け、湯気の立つ水筒を手にしていた。寒さに肩を竦める様子もなく、足を投げ出すようにして座るその姿は、相変わらずだらしなくも、どこか馴染んで見えた。
そこへ――ふわりと、風のない方角から足音が近づいてきた。
いや、足音と呼べるものはなかった。細雪を踏むことすら避けるような、柔らかい動き。
「……フー」
肩越しに声をかけると、目の前に、白い狐耳が現れた。彼は穏やかな目でこちらを見ている。けれど、その瞳には、うっすらと翳りがあった。
「ランシー」
短く名前を呼ばれ、ランシーはわざとらしく肩をすくめてみせた。
「よぉ、お前も見に来てたのか。新兵たち、だいぶ動けるようになったろ?」
軽口を叩くと、フーリェンは小さく瞬きをした。目を逸らすでもなく、ただ静かに、じっとランシーを見ている。その様子に、ランシーは水筒を片手でぶら下げたまま、口角を上げた。
「昨日、ありがとな。運んでくれたの、お前だったって聞いた。……重かったろ?」
そう言って肩をすくめてみせると、フーリェンは小さく首を振った。
「……どこか、おかしなところはないのか?」
ぽつりと、フーリェンが口を開いた。
その声音は低く、淡々としていたが、奥に潜む不安は隠しきれていなかった。感情の起伏を表に出すことの少ない彼が、あからさまに不安を帯びた顔で、こちらを見てくる。それだけ、最近の出来事が、彼の心に残っているのだろう。
ランシーはそんな視線を真っ向から受け止め、いつものようにへらりと笑った。
「大丈夫だ。安心しろ。……頭の中、少しぐるぐるしてるくらいで、な」
そう言って笑ってみせる。ほんの少しの冗談混じり。けれど、それ以上、彼を心配させまいという気遣いも、滲ませた笑みだった。フーリェンはほんの一瞬眉を寄せたが、それ以上は何も言わなかった。代わりに、ランシーの方から声を続けた。
「……それよりも、お前こそ、大丈夫なのか?」
そう言って、水筒を膝に置き、まっすぐにフーリェンを見た。
「能力、不安定だったろ?」
少しだけ間が空いて、フーリェンは静かに頷いた。
「うん、平気」
そして、彼の腰の後ろから、白銀の尾がふわりと揺れた。ひと振り、さらさらと風を切るように。感情と直結するその尾が、落ち着いた動きを見せているなら――きっと本当に、彼はもう大丈夫なのだろう。
その様子に、ランシーはまた、わずかに目を細めた。
「……そっか。それなら、いい」
口調は軽いが、その奥には、目に見えぬ安堵があった。