第九章 ユリウス2
王宮の地下――夜半の冷たい空気が、石造りの廊下にこだましていた。火の気のない暗がりに、ひたり、ひたりと音を立てて足音が二つ。松明の明かりが届く場所を抜け、灯りの下に現れたのは、フードを深く被った細身の男と、小柄なもう一人の人物だった。
並んで歩く二人の影のうち、男の瞳は松明の明かりを受けて銅色に揺れた。小柄な人物はその横顔を見上げながら、立ち止まる。
「……サンプルは、すべて揃いました。あとは、こちら側で生産を進めるだけです」
艶のある声。滑らかな語り口には、妙な余裕と遊び心が滲んでいる。声の主が女性であることは明らかだった。
「それなら、よかった」
隣の男は、柔らかく微笑み、穏やかな口調で応じた。
「君の能力は本当に便利だね。協力してくれて、助かるよ」
女は小さく肩をすくめ、静かにフードを外した。
そこに現れたのは、そばかすの目立つ黒髪のヒューマン。整ってはいるが、どこにでもいそうな、目立たない顔立ち。
……が、次の瞬間。
その姿が淡い霧のように揺らぎ、まったく別の姿へと塗り替えられた。
現れたのは、黒髪を肩に流した女狐。
琥珀色の瞳が、夜の松明に照らされて妖しく光る。
「……私の能力なんて、そんな珍しいものでもありませんわ」
仄かに笑うその声音は、先ほどのヒューマンのものと同じながら、どこか鋭さを帯びていた。
男は目を細め、楽しげに返す。
「姿を自在に変えられるなんて、潜入にも偵察にも持ってこいじゃないか。フーリェンもそうだけど、狐は面白いよね」
その言葉に、女狐はわずかに顔をしかめ、げんなりしたように肩を落とした。
「あれと一緒にされるのは心外です」
瞳を細めると、彼女の声には冷えた棘が走った。
「私の能力は、ただの幻覚。目の錯覚。……姿そのものが変わるわけじゃない」
「身体ごと別の何かになるなんて、気持ち悪い」
吐き捨てるように言いながら、女狐は再び男の方へと向き直る。そして、口元に作り物めいた笑みを浮かべた。
「……では、私はこれで。あなた様がなぜ私たちに協力してくださるのかは分かりませんが……」
「せいぜい、尻尾を掴まれないよう、お気をつけくださいませ――ユリウス殿下」
最後の言葉には、明確な皮肉が込められていた。
それを受けて、銅色の瞳の男――ユリウスは、目を細めて微笑む。その表情は、まるで何もかも計算づくであるかのような、曖昧な笑みだった。
「もちろん。君たちも、ね」
そうして、静かにその場を後にした二人の影が、闇の中へと溶けていく――。
女狐が踵を返し、石畳の闇にその身を消しかけた瞬間だった。地下の静寂を破るように、コツリ――ともう一つ、足音が響いた。
細く鋭い音が、長い廊下に反響する。
異変を察知して、女狐も、ユリウスも、ほぼ同時に振り返った。その視線の先にいたのは――どこか不安げな、少年のような瞳をした男だった。
ランシー。
大柄な体格が、闇に染まる通路の中でほんのり揺れていた。いつもの朗らかな笑みもなく、彼は驚きと動揺を隠しきれないまま、ぽつりと呟く。
「……ユリウス様……」
口元を震わせながら、それ以上の言葉が出てこない。
今、彼の目に映っているのは――知らなかった“主人の裏の顔”。並んで立っていた女狐は一瞥をくれただけで、もう何も言わずに立ち去った。だがその背中を見送る余裕すら、ランシーにはなかった。
ユリウスが、ゆっくりと彼に向き直る。表情は、何も変わっていない。いつも通り、薄らとした笑みを浮かべていた。だがその瞳だけが、まるで別人のように冷えている。
「どうしたんだい、ランシー? 君、今日は南門の門番だったんじゃないのかい?」
あくまで穏やかな声。問いかけ。
けれどその一歩が、重く鳴る。地下の床に、響く。
ランシーはビクリと肩を揺らした。いつもの陽気さなど、影も形もない。まるで怯えた兎のように、視線が揺れる。
「……た、たまたま、巡回を……変わってほしいって、言われて……代わって、それで……ユリウス様の、気配を感じて……」
言葉にならない言葉。彼の目には、恐怖も、混乱も、悲しみも混ざっていた。そして何より、自分が“信じていた存在”が崩れていく音が――そこにはあった。
「そうか……」
ユリウスは小さく呟くと、そっと一歩前に出た。
足音もなく、まるで滑るような動きだった。
その眼差しが、真っ直ぐランシーを捕らえる。
目を逸らせない。逃げられない。
本能が告げる。――この男は、危険だ。
ランシーは反射的に、一歩後ずさった。
そして――恐怖に濡れた目で、口を開く。
「ユリウス様……どうして……」
その声に、ユリウスは困ったように眉を下げる。
柔らかく微笑んだその表情は、まるで優しい兄のようだった。
「……ごめんね」
声の色が、少しだけ変わる。
ほんの僅かな、悲しみを滲ませた響きで。
「君に……能力は使いたくなかったのだけれど」
そう言って、ユリウスは片手を差し出した。
次の瞬間、目に見えぬ“何か”がランシーを包み込んだ。
「……全部忘れて、眠るんだ」
その言葉を最後に、ランシーの瞳がかすかに揺れて―膝から崩れ落ちるように、静かに意識を手放した。
深い闇の底へと、沈んでいくように。