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王宮の獣護  作者: 夜夢子
第9章
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第九章 グレン

重たい沈黙の中、記録台に置かれた書類の端が小さく揺れた。王宮地下の尋問室は、余計な物音すら遠ざけたかのように、冷たく静まり返っている。


その中心で、ジンリェンとアルフォンスの前に座る青年――グレンは、俯いたまま目を合わせようとしなかった。彼の頬にはまだ微かに熱の名残がある。数週間に渡る薬の影響を受けていた体は、完全に癒えたわけではない。


「……名前はグレン。西の国境、ヒュレス村出身。親族は嫁いだ妹が一人」


ジンリェンが読み上げた記録の内容に、グレンは弱々しく頷いた。


「王宮の再編と共に第四軍に移動……異動前の上官評価も、特に問題なし」

「――だが、薬を配っていたのはお前だな」


アルフォンスの低い声が、尋問室の空気を切るように落ちる。グレンの肩がわずかに震えた。


「……はい。俺が、やってました。渡された薬を、指示された通りに……」

「誰に、指示された?」


ジンリェンの問いに、グレンはしばらく口を開けずにいた。まるで何かを探るように目を伏せたまま、唇を噛む。


「……信頼してた人、です。その人に頼まれたから……だから……」

「名前を聞いている」


強い口調ではなかったが、アルフォンスの声音は明確な圧を帯びていた。それでも、グレンは答えない。答えられない、といった方が正しかった。


「……出てこないんです。顔も、声も、思い出せる。でも、名前が……出ない。おかしいってわかってるのに……っ」


両手で頭を抱えるグレン。揺れる肩に、迷いや恐怖が滲んでいた。ジンリェンとアルフォンスが一瞬だけ目配せを交わす。


「記憶の欠落……いや、意図的に消されているのかもしれない」

「可能性としては、記憶操作、あるいは精神干渉の能力によるものだな」


アルフォンスの言葉に、ジンリェンは僅かに眉をひそめた。


「だが、それが可能な能力を持つ者に、心当たりは?」

「…現状は、ありませんね」


そう言ったジンリェンの声には微かな含みがあったが、これ以上深追いするような言葉は続かなかった。


「グレン。君が自分で思い出そうとする限り、我々は君を“敵”とは見なさない。ただ、記憶の齟齬がある以上、このまま野放しにはできない。協力してもらうよ」

「……はい」


うなだれたままのグレンに、アルフォンスが静かに告げる。


「隔離室に移す。ユキとナージュに診てもらい、記憶の状態と影響を調べさせろ」

「俺が手配します」


ジンリェンが頷き、記録の一部を持ち上げたその瞬間、グレンの手が微かに動いた。思わず走る警戒――だが、次に発せられた彼の声は、ごく弱く、ただ懇願の色を含んでいた。


「……俺、罪を犯したと思ってます。でも……どうしても、誰のためだったのか、思い出したいんです」


その言葉に、ジンリェンの手が止まる。

そして、数拍の沈黙ののち、アルフォンスは低く、しかし穏やかに言った。


「思い出せるさ。お前が本当に“自分の意思”で動けるなら、いずれ、な」



グレンの聞き取りは数日に渡って行われ、その断片的な記憶が徐々に線として繋がり始めていた。


「薬の受け渡しは……夜中、王宮の地下。いつも同じ場所で……」


落ち着きを取り戻したグレンは、ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。


「俺の他にも、何人かいたと思います。顔は見えなかったけど……少なくとも、話してた相手がいた。訓練場では見たことない声でした」


ジンリェンは無言で頷きながら、書類に目を走らせる。


「薬を渡してきたそいつ、名乗りはしなかったか?」

「いえ。ただ……“医務官の指示だ”とは言われました。でも、制服も着ていなかったし、顔もフードで隠していて……」


その言葉に、ジンリェンとアルフォンスの視線が交差する。


「……やはり、あの“記録上しか存在しない医務官”の線と繋がりますね」


ジンリェンが低く呟くと、アルフォンスも静かに頷いた。


「顔が分からず、記録にしか存在しない。だが兵士たちは確かに“その人物”から薬を受け取った記憶がある……」


アルフォンスは机の上の資料に手を置いた。


「となると、“医務官”を騙った誰かが地下で動いていた。フードを被り、名前も偽り、記録にも残らないよう動いていたとすれば――」

「本格的な潜伏。少なくとも、ただの気まぐれじゃない」


ジンリェンの言葉に、室内の空気がひとつ重くなる。


「狙いが不明なのが一番厄介ですね」


ジンリェンが軽く額を押さえ、ため息混じりに呟く。


「薬の効果は分かった。手口も見え始めている。ただ、“誰が何のために”この騒動を起こしたのか……それだけは、まだ見えない」

「……だが、一つ確かなことがある」


アルフォンスの声が落ち着きながらも鋭く響いた。


「この一件が、偶然ではなく――“意図的に計画された行為”だということ。これを機に、我々の中に何かを仕掛けようとした誰かがいた」


沈黙が落ちる。

グレンの証言から導かれた仮説に、ジンリェンは一度だけ目を伏せた後、椅子の背にもたれた。


「一先ず……騒動は収まった。薬の流通は止まり、被害者の大半も回復している。兵の士気も戻りつつある」

「だが、これは終わりじゃない。始まりだ」


アルフォンスが席を立つ。その目はすでに、次の策を思案していた。


「姿の見えない“医務官”。記憶に影を落とす“誰か”。そして、計画的に兵士たちに与えられた薬――」


王宮に忍び寄る闇は、一度姿を現し、再び静かに潜った。だが、彼らはもう知っている。その気配が、確かに“存在する”ことを。


一先ずの難は去った――

しかし、その背後にある“意図”は、まだ影の中に潜んでいた。


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