第九章 心当たり
棚の隙間に差し込む午後の陽が、書架の埃を金の粒に変えていた。
「……名前はあるが、姿を見た者はいない。推薦者の記録もなく、承認印も不鮮明。どういうわけか、誰も顔を思い出せない」
文官が開いた記録台帳のページを、ジンリェンとランシーが覗き込む。そこには「エルド」の名と、“医務局臨時補佐”の肩書きが記されていた。
「この提出は?」
「先月の中旬、急ぎの申請で。提出した文官は、今自宅療養中のエリクという若手です」
「病欠中……」
ジンリェンが目を細めるのを、ランシーは横目で見た。そして、視線を資料に戻しながら、静かに息を吐く。
「仮にこの“エルド”が実在しないとしたら……。誰かが記録を操作して、存在しない者を“いたことにした”としか思えない」
「記録の改ざん。けど、そんな器用な真似をするヤツが王宮内にいるとは考えづらい」
「いや、もしかすると……記録じゃなく、“人の記憶”を操作されたのかもしれんぞ」
その言葉を発したジンリェンが、すぐに自分の発言に驚いたように口をつぐむ。
「人の記憶を……?」
ランシーはその言葉を反芻する。ゆっくりと、背筋が冷えていく感覚があった。思い浮かぶのは、穏やかな笑顔と、おどおどとした声。そして思い出す、捉えられた南の密偵への尋問。“能力の射程”に触れるからと、先に尋問部屋から出されたあの日。
「ランシー、お前はどう思う?」
ジンリェンの問いに、ふと我に返る。
「……分からない。ただ、“記録の改ざん”がされてないとすれば、残るは“人”側の問題になる。誰かが意図的に、関係者の記憶を歪ませた可能性があるとすれば…」
「その能力者に心当たりは?」
ほんの一瞬、ユリウスの名が喉元まで上がったが、ランシーはそれを飲み込んだ。
「今のところ、ないな」
ジンリェンはその答えを受けて深く頷き、記録の束を閉じる。
「となると、次は“誰が記憶を歪められたか”を洗っていくしかないな。何かが残っているかもしれない」
「……ああ」
ランシーもまた頷きながら、心の中でそっと名前を封じた。
“ユリウス”。
その名が真実を照らすか、あるいは深淵に繋がる鍵となるのか――まだ、確信はなかった。
だが、確かに何かが“蠢いている”。
そしてその“何か”は、静かに、しかし確実に、王国の根を蝕んでいるような気がしてならなかった。