第九章 兆し
夜の静寂を裂くように、薬瓶のふたが一つ、また一つと開けられていく。王宮医務室の調合室では、複数の薬師たちが無言で手を動かしていた。松明の灯りが机の上の器具と液体に反射し、青白い光の粒が室内をちらつかせている。
その中心で、ナージュは試薬を手に、表情を険しくしていた。
「……成分そのものは特別なものじゃないわ。能力の扱いが未熟な兵士に処方される、一般的な抑制剤とほぼ同じ。でも――」
視線を落とした先には、息子シュアンランが持ち込んだ一本の瓶。フーリェンが常に腰のポーチに忍ばせていた、彼専用の“抑制剤”だ。
「これは、少しだけ違う。あの子がまだ子どもの頃……能力の暴走を繰り返していた時期に、私が処方を強化したの。副作用を抑えながら、効き目を通常の倍以上に引き上げた仕様。今でも時折調整して渡しているけれど、記録には残していない“非公式品”よ」
ナージュの声に、周囲の薬師たちが顔を見合わせる。
それは、ナージュが我が子に近い想いで見守ってきた存在――フーリェンへの、長年の備えだった。
「その“強化版”を、今から量産します」
ナージュは毅然とそう告げると、補助薬師たちに具体的な処方と素材の指示を出し始めた。
「必要なのは通常の抑制剤じゃない。今回の“滋養剤”――いいえ、“能力増強剤”に打ち勝つためには、このレベルの抑制力がなければ意味がないわ。時間はかかるけど、やるしかない」
「素材は……青鉱樹が肝になりますが、在庫がギリギリです。回収班に回しましょうか?」
薬師の一人が報告すると、ナージュは即座に頷く。
「急いで。足りない分は、私の私蔵庫からも使っていいわ」
一方、調合机の傍らで記録簿を確認していたシュアンランは、成分表と過去の試作記録の突き合わせを終え、書類を閉じた。
「これで“何を飲まされていたか”がはっきりしたな。あとは、この薬をいつ、誰が、どこで流通させたのか……そこが分かれば」
「でも、これで一歩前進」
ナージュが、少しだけ目元を緩める。
再び湯気を上げ始めた調合器具の向こうで、新たな抑制剤が静かに生まれ始めていた。それは、この混乱を鎮めるための、最初の光だった。ナージュは一つ深く息を吐き、調合台から顔を上げると、傍らで黙って作業の進行を見守っていた息子に視線を向けた。
「……シュアン。お願いがあるの。今回の調薬には、たくさんの氷が必要になる。冷却と定着、両方にね。薬の質に関わる、大事な工程なの」
その声は、医務官としての命令でも、母としての甘えでもなかった。シュアンランは短く目を瞬かせ、薬瓶がずらりと並ぶ机を一瞥する。そして、戦場の兵たちの姿が脳裏をよぎった。額に汗し、歯を食いしばり、正気を保てずに苦しんでいた彼らの姿が。
「……了解。母さんの頼みなら、なおさら断れないしな」
口元をほんの僅かに上げ、氷狼はすぐさま腕を前に差し出す。
「薬、飲んでない奴らにも声かけてくる。それまでの間――」
声と同時に、彼の足元から冷気が舞い上がる。
空気がきらきらと震え、澄んだ氷の花が一輪、調合器具の中心に咲いた。
「――これくらいで足りるか?」
その白く輝く氷は、灼けた鉄を鎮めるように、ゆっくりと薬液の温度を引き下げていく。それを見たナージュはふっと息をつき、微笑みと共に頷いた。
「ええ。ありがとう、シュアン」
母と息子、そして薬師たちの想いが、確かに一つに重なった瞬間だった。