第九章 作用
ぐるぐると――渦のように思考が回る。
「この感覚……」
フーリェンは小さく呟いて、額に手を当てた。視界の端がにじむ。耳の奥で、水の中にいるような、遠くて濁った音が響いていた。力を抜けば、またどこかへ落ちてしまいそうな浮遊感。それでも意識を繋ぎとめようと、彼は必死に内側へと感覚を潜らせる。
――どこかで、この感覚を知っている。
記憶の底に、似たようなものがある気がする。けれど、それが何なのかが思い出せない。まるで心の奥に、ずっと前から置かれていた「蓋」。それに触れることはできても、開ける術だけが思い出せない。
「……フー?」
不意に、目の前から声がした。それに応えるように、フーリェンの姿がふっと揺れる。耳の形が変わり、尾の毛並みが短くなり、次の瞬間には肌の色がわずかに暗く染まる。そしてまた、元の姿に戻る。一連の変化が、まるで呼吸のように、何度も繰り返された。
「うわ……おい、大丈夫か?」
ランシーが眉をひそめ、思わず身を乗り出す。
「こんなに、コロコロ変わるなんて……初めて見た」
シュアンランが隣で静かに頷く。
「こいつの能力は本来、もっと安定してるはずだ。こんなに連続して変化するのは……、薬の影響が、能力にまで干渉してる証拠だな」
「もしかして、能力そのものを“支えてる芯”が揺らいでるのかも」
ランシーがぽつりと呟いた。
「……芯?」
「フーの能力ってさ、ただ姿を変えてるだけじゃない感じ?だろ。内側にある“核”が揺れれば、それに応じて形もぶれる。逆に言えば、何かがフーの“本質”を乱してるんじゃねーかな…」
その言葉に、ジンリェンも表情を曇らせた。
「つまり、ただの身体的な副作用じゃねぇってことか。……根が、もっと深い」
「…つまるところ、…“芯”を壊されかけてるんじゃねーかな」
その言葉が、なぜか妙に胸に刺さった。ランシーはじっとフーリェンの変わる姿を見つめていた。耳、毛並み、肌、時には人で、時には獣の影。そのどれもが“フーリェン”という存在を保っているのに、不安定で、儚い。シュアンランは、無言でフーリェンの頭に手を当て、軽く撫でるようにして言った。
「大丈夫だ。落ち着くまで、みんなそばに居る」
フーリェンはそれに気づいたのか、薄く目を開き、小さく、ほんのわずかだけ頷いた。
それでもなお、変わり続けるその姿の奥に――
彼自身もまだ、触れることができない「何か」が、静かに沈んでいた。
その場にいる全員が、静かに変化するフーリェンを見守る中、ふいにジンリェンの目が鋭く光った。
「……待てよ。ランシー、その“核が壊されてる”って言葉、何か引っかかるぞ」
シュアンランが顔を上げ、ジンリェンの視線を受け止める。
「俺も思った。この薬が能力の芯…に影響しているとすれば……」
ジンリェンは言葉を繋げながら、拳を軽く握った。
「この薬の本当の作用……単なる“滋養剤”じゃない。能力の根幹に干渉して、その制御を狂わせている可能性がある」
フーリェンはぼんやりとしながらも、かすかに耳を傾けていた。視界はまだ揺れていたが、三人の言葉だけは確かに届いている。
シュアンが静かに頷く。
「それなら、この薬を飲み続けていた兵士たちも、同じ症状を発症している理由が説明できる。能力の根幹が揺らげば、暴走も起きやすくなる」
ランシーが腕を組み、少し厳しい顔を見せた。
「問題は、この薬の出所だ。いったい誰が、何の目的でこんなものを……」
ジンリェンの声に重みが増す。
「早急に調査を進めないとな。強い能力をもつ奴ほどやっかいだ」
フーリェンは目を閉じ、ゆっくり息を吐いた。どこか遠く、でも確かに聞こえている三人の会話が、彼の胸の奥に重く響いていた。フーリェンは静かに腰のポーチに手を伸ばした。取り出したのは、以前から携帯している「抑制剤」の小瓶だった。まだ朦朧としてはいるが、三人の話を落ち着いて聞ける精神状態にある自分を確かめるように、フーリェンは小瓶の蓋を開ける。
「……もし、これで制御が効かないなら、他に方法はないな」
小さく呟くと、ゆっくりと抑制剤の液体を飲み干す。すると、数刻もしないうちに彼の姿はみるみるうちに元の白狐の形へと戻っていった。揺らいでいた視界も徐々に明瞭になり、先ほどの不安定な症状がまるでなかったかのように彼を包み込んだ。
その変化を見つめていた三人は、思ったよりも抑制剤が効いていることに驚きを隠せなかった。
「……効き目、思ったより強いな」
ジンリェンが感心したように呟くと、ランシーも頷いた。抑制剤を飲み終えたフーリェンの体から、ふっと緊張が抜けた。その変化は明らかだった。先ほどまで歪んでいた表情も、視線の揺れも、まるで嘘のように消えていた。
「……完全に戻ったな」
ランシーがぽつりと呟く。隣で様子を見ていたジンリェンも、小さく息を吐いた。
「やっぱり、能力に作用してたんだな……。あの薬、“滋養剤”なんかじゃねえ。正体は能力の増強剤だ」
「だから、能力の違いによって出る症状もバラバラだったのか」
シュアンランが重く言葉を継ぐ。
「強化された力が暴走する者もいれば、制御しきれずに崩れる者もいた。能力操作の未熟な新兵たちの多くが正気を失ったのも納得できる」
ランシーはフーリェンを見つめながら言う。
「フーがすぐ回復したのは、薬物への耐性が高いのと……体が“抑制剤の効果”を覚えてたからだな」
ジンリェンがうなずく。
「長年付き合ってきたからな。体の方が覚えてるってわけだ」
フーリェンは静かに、自分の手のひらを見つめた。かすかに震えていた指先は、もう止まっている。だが、そこに残る冷たい余韻は、薬がもたらした影の一端にすぎない。
「……僕も、飲み続けてたら壊れてたかもしれないな」
言葉に重くのしかかる沈黙が落ちたが、シュアンランがそれを破るように静かに口を開いた。
「まだ間に合う。今、気付けたのなら、止められる」
「そのためにも……もっと情報を集めないといけないな」
ランシーの声に、三人が小さく頷いた。
抑制剤で安定したとはいえ、それは一時的な解決にすぎない。だが、確かな確証を得た四人は、ようやく霧の中に浮かぶ敵の輪郭に、手を伸ばし始めたのだった。
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「一旦、医務室に行ってくる。母さんたちに知らせねーと」
シュアンランが立ち上がり、手早く資料をまとめて腕に抱える。ようやく見えた“薬の正体”という答えを、一刻も早く医務局に届けるためだった。
「シュアン、これ持って行って」
フーリェンが空になった抑制剤の小瓶を迷いなく投げ渡すと、シュアンランは頷き、軽く手を上げて部屋を出ていった。一方で、フーリェンは依然と椅子に深く腰かけたままだった。抑制剤の効果で症状は落ち着いていたが、油断はできない。自覚できていないだけで、体のどこかに負担が残っている可能性もある。
「まだ安静にしてろよ。すぐ戻る」
ジンリェンは彼にそう言い残すと、背筋を伸ばして扉の方を向く。
「俺はアルフォンス様たちに、状況を報告してくる。こっちの様子も、できる限り早く伝えた方がいい」
「うん」
フーリェンの短い返答に、ジンリェンは静かに頷いてそのあとを追った。残ったランシーも、立ち上がりながら言う。
「お前の代わりに、俺がルカ様のところへ報告に行ってやる。あとはアンナたちにも状況を共有しとく。あいつらには事前に注意を促しておいたほうがいい」
「……すまない、頼む」
「いいから、黙って休んでろ」
少しだけ笑って見せたランシーが部屋を出ると、フーリェンの周囲は静けさに包まれた。薬の影に翻弄される者たち。その中で、ようやく見えかけた“本質”の欠片。だが、その欠片が示す道の先に待つものが、果たして希望なのか、それとも――。
フーリェンは静かに目を閉じ、深く息を吸った。
その胸の奥には、まだ揺るがぬ決意の灯が、確かに残っていた。