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王宮の獣護  作者: 夜夢子
第9章
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第九章 忍び寄る異変2

「……フー、遅くないか?」


シュアンランがふと顔を上げ、時計を見やる。

三人がフーリェンと別れてから、かれこれもう十五分以上が経っていた。薬の瓶を一本取りに戻るだけ。それ以上の時間がかかる理由は、ない。


「あいつの部屋ってすぐそこだよな。寄り道でもしてんのかね」

「いや……寄り道してても、さすがに戻ってきてる」


シュアンランの声には、明らかな不安の色が滲んでいた。眉間に皺を寄せる彼の脳裏を、ここ数日の兵士たちの様子が次々と過る。薬をやめてから三日後、最初に倒れた一人を皮切りに、症状は連鎖するように広がった。吐血、目眩、急激な体力の低下。そして意識の混濁――。


「……まさか」


小さくそう呟いたランシーの声に、ジンリェンは即座に立ち上がっていた。反応が早かったのは、内心、誰よりもその可能性に気づいていたからだろう。


「フー…!」


その一言を残して、ジンリェンは扉を押し開ける。

その背に、シュアンランとランシーも躊躇うことなく続いた。足音が、廊下に乾いたリズムを刻む。先程まで、笑って「大丈夫だ」と言ったあの表情が、かえって頭から離れない。どれだけ平然と振る舞っていても、症状が現れる者は現れる。


目的地はすぐそこだ。扉一枚の向こう――それでも、その扉が妙に遠く感じられた。足が自然と速まる。

三人の心臓の音が、廊下の静けさに打ち鳴らされていた。


フーリェンの部屋の扉が、すぐ目の前に迫る。そして、ジンリェンの手が――迷いなく、取っ手を握った。


扉を開けた瞬間、三人の目に飛び込んできたのは、クローゼットの前に膝をつくフーリェンの姿だった。


「フー!」


ジンリェンの声が、弾けるように響いた。部屋の明かりの下、フーリェンは壁に片手をつきながら、肩で息をしていた。額にはびっしりと冷や汗。顔は苦痛に歪み、今にも倒れ込みそうな姿勢で揺れている。


「おい大丈夫か!」


ランシーが咄嗟に駆け寄ろうとした瞬間だった。ふらつきながらもフーリェンがこちらに手を伸ばし、低く唸るような声を漏らした。その表情は険しく、牙を剥いていた。


「……っ!」


鋭く光る牙が、警戒と威嚇を物語る。獣の本能が、誰かを“敵”と認識している証。だが、次の瞬間には耳も尻尾もだらりと垂れ、彼の表情が一変した。怯えるように体を縮め、震えながら首を左右に振る。


「おい、フー! 俺たちだ!」

「大丈夫か!?」


焦るように声をかける二人に、フーリェンの目は一度だけ揺れるように向いた。けれど、焦点はまるで合っていない。その双眸は、確かに何かを捉えてはいたが、それが何なのかまでは、分からない。


「……幻覚か」


低く呟いたのはジンリェンだった。次の瞬間、彼の瞳が赤く灯り、指先が淡く燃える。ゆっくりと手をかざすと、小さな炎が、フーリェンの前にふっと咲いた。


「フー、見ろ。…俺だ」


――炎。


目の前で揺れる温かな光に、フーリェンの呼吸が一瞬止まる。身体の芯に届くような熱。記憶のどこかで刻まれていたそれに、フーリェンの瞳が僅かに見開かれた。


「……ジン……?」

「ああ、俺だ。シュアンも、ランシーもここにいる」


遅れてランシーとシュアンも、フーリェンのそばに膝をつく。


「……ごめん、もう、大丈夫」


弱々しく、だが確かに届いたその声に、三人はほっと息をついた。力なくへたり込んだフーリェンの背に、シュアンランがそっと手を置く。


「安心しろ、もう一人じゃない」

「……幻覚、見てた。…みんながすごく、怖いものに、見えた」

「わかってる。もう、平気だ」


ジンリェンの炎は、ゆっくりと消えていく。

だが、部屋の中には確かに温かな光が残っていた。

ようやく正気を取り戻したフーリェンを、ジンリェンが支えながらゆっくりと立たせる。その腕にはまだ若干の震えが残っていたが、フーリェンの瞳にはすでに光が戻っていた。


「医務室に行くぞ。症状が出てる以上、すぐ診せた方がいい」


ジンリェンが当然のように言ったが、フーリェンは小さく首を振った。


「……今、医務室に行ったって何も変わらない。むしろ、症状が出た状態での記録と観察のほうが必要だろ」

「バカ言うな。立ってるのがやっとじゃねぇか」

「……でも、まだ正気だ。僕は“どういう風に狂うか”を、伝えられる」


言い切ったフーリェンの声には、微かに掠れがあったが、決意は揺るぎなかった。三人は一瞬言葉を失ったが、先に口を開いたのはランシーだった。


「なら、ここで話そう。ただし、次容態が悪化したら中止だ」

「話すべきことは、山ほどあるからな」


四人は互いに頷き合い、フーリェンの部屋の簡素な長机を囲む形で腰を下ろした。窓は閉め切られ、厚いカーテンが音も光も遮っている。


「……まず、こっちから共有するな」


ランシーが口火を切った。


「在庫資料を洗ったら、どうにも在庫数の合わない材料がひとつあった。ロズニカ根、どう考えてもこの“滋養剤”のベースになってる」

「で、それを扱ってた医務官の名前を追ったんだが…存在しないんだ。そんな名前の医務官なんて、どこにもいないって母さんが断言してた」


エルドって名前だったんだが…と、シュアンランが苦々しげに言う。


「名前はあるのに、実在しない。つまり、王宮に長期間“紛れ込んでいた”ってことだ」

「普通ならあり得ない。けど……それが起きてる。じゃなきゃ薬は、ここまで広まらない」

「フー、お前も心当たりはないよな?」


ランシーが黙って話を聞いていたフーリェンに話を振る。話を振られたフーリェンもまた、心当たりがないとばかりに小首を傾げて、記憶を掘り起こすように眉間に皺を寄せた。


「聞いたこと、ない…。みんなより、医務室には出入りしてるから、医務官の名前は全員覚えているはずだけど…」



淡々と語るフーリェン。だが、その身体には微かに異変が表れ始めていた。


「お前、姿……」


ランシーが指差すその先で、フーリェンの髪がゆっくりと色を変えていく。白から淡い灰に、耳の形がやや鋭くなり、次の瞬間には尻尾の毛並みが濃くなっていた。


「…うん……やっぱり、安定しない。能力も……揺れてる。自分の“姿”すら定まらない感覚がある」

「影響は、身体的にも能力的にも出てるってことか」


ジンリェンが静かに呟いた。


「だけど、それでも話せているし、冷静でいられてる。それは……」

「耐性、だと思う。そもそも体が薬に慣れてるから、症状の出方が緩やかなんだと思う」

「……なるほどな。普通の兵士だったら、正気じゃ済まないってことか」


三人の顔が、重く沈んだ空気に染まる。

フーリェンは、少しだけ笑った。


「……だから、早く解決しよう。僕が保てるうちに」

「言うな。あんまり無理するなよ」


ジンリェンの声は、どこか兄としての静かな叱責のようでもあった。フーリェンは軽く頷くと、手元の水をひと口含み、揺れる体を椅子の背もたれに預けた。

四人は、わずかに静寂を挟みながらも、次なる一手を考え始めていた。

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