第九章 忍び寄る異変
書庫前。ジンリェンとフーリェンが足を踏み入れると、扉の前で待っていたシュアンランが顔を上げた。
「来たな。悪いな、そっちも忙しかっただろ」
「こっちはライヤンに交代してもらった。で、手がかりが掴めたって?」
ランシーが腕に抱えていた数冊の記録簿を見せるように軽く掲げた。
「まあな。信じがたい話かもしれないけど、聞いて損はねえ。中身は……それなりに面白いぞ」
「なら場所を変えるか。立ち話で済ませるような内容でもなさそうだ」
「俺たちは記録を運ぶから、お前の部屋でいいか?」
「ああ、散らかってて悪いが大目に見てくれ」
四人は歩き出す。廊下にはまだ昼の光が差し込んでいたが、気配はどこか沈んでいた。足音だけが、規則的に響く。歩きながら、シュアンランがぽつりと話を始める。
「調べてるうちに、ある医務官の名前に辿り着いたんだ」
「それが、問題の発端か?」
「……いや、発端どころか、“いない”んだよ。その医務官。母さんに確認したけど、そんな名の医務官は王宮には存在してないってさ」
「存在しない医務官……?」
フーリェンが繰り返し、ほんの一瞬、眉をひそめた。
「名前も記録もあるのに、実在しない。なのに在庫の流れにはしっかり痕跡があるんだ」
ランシーが言いながら書類の一部を叩く。
「怪しいにも程があるだろ」
「……潜伏、か。それとも“誰かがそう見せてる”だけなのか」
ジンリェンが低く呟いた。
「いずれにせよ、足はつかせねぇって腹なんだろうな」
「あっ、……」
そうだと、言いかけてフーリェンが足を止めた。
三人が振り返ると、彼はすまなそうに口を開いた。
「僕、部屋に例の瓶が一本残ってる。参考までに持っていく。先に行ってて」
「了解。部屋で待ってる」
ジンリェンが軽く手を振ると、フーリェンは小さく頷いて背を向け、足早に反対の廊下へと消えていった。
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扉が静かに閉まり、部屋には再び沈黙が戻った。
フーリェンは足音を忍ばせるように歩き、クローゼットの奥―仕切り板の裏に差し込んであった薄い布の包みを手に取る。中に隠していたのは、細身のガラス瓶。中には例の“滋養剤”と呼ばれる液体が揺れていた。
「……これで最後か」
小さく呟き、瓶をひと目だけじっと見つめてから、腰のポーチの中へと滑り込ませた。
その瞬間だった。何の前触れもなく、視界が揺れた。
「っ……」
思わず壁に手をつく。足元が、地面ではなく水面に変わったかのようにふわふわと不安定になる。呼吸が浅くなる。心臓の鼓動がやけに耳に響く。全身から力が抜け、膝が床に落ちた。張り詰めた空気が一気にほどけたかのように、身体の重みがのしかかる。クローゼットの前にしゃがみ込んだまま、フーリェンは震える指で頭を押さえた。脳の奥が軋むように痛む。視界は滲み、焦点が合わない。口の中で言葉を組み立てようとするが、舌がうまく回らない。喉も、動いてくれない。
(ジン……ここからなら、声を出せば……気付くか……?)
けれど、吐息すらまともに出せなかった。喉の奥で乾いた音が空振りするだけ。歯を食いしばりながら、それでも必死に床に手をついて体を支えた。このまま倒れてしまえば、誰にも気づかれずに時間だけが過ぎていくかもしれない――。
それが、何よりも怖かった。
(……動け……僕……)
己の体に命令を送るように、フーリェンは力を込めようとする。しかし、世界は揺れ続けていた。重力と身体の感覚がちぐはぐになっていく。そして、床に落ちた手が――じわ、と冷たい汗で濡れていった。