第九章 痕跡
「なあ、これ……どう思う?」
ランシーが手元の帳簿を指で叩く。それは、王宮の医務局が保管する薬品材料の在庫記録だった。シュアンランはその隣に腰を下ろし、眉間に皺を寄せながら、もう一度記録をなぞった。
「……数が合わない。特に、この…ロズニカ根。使われた形跡がないのに、明らかに減ってる」
「な? やっぱおかしいよなこれ」
ロズニカ根――疲労回復や体力増進に効果があるとされる、比較的強い刺激を持つ薬草だ。滋養剤のベースにも使われることがあるが、そのままでは毒にもなりかねないため、通常は医務官の管理下で厳重に扱われていた。
「納品記録は……これ。納品先に署名がある。エルド、だと」
「……誰それ。聞いたことねーな」
ランシーの言葉に、シュアンランも眉をひそめた。
二人とも、王宮付きの医務官の名前はほとんど記憶しているはずだった。だが、その名前にはまったく聞き覚えがない。
「ちょっと母さんに聞いてくる。医務局でこの名前の医務官が本当に存在してるかどうか」
「頼む。俺も調べ直してみる」
王宮医務局の中庭。忙しなく行き交う医務官たちの中に、母ナージュの姿を見つけたシュアンランは足早に駆け寄る。
「母さん、今、いい?」
「どうしたのシュアン、また体調崩した子でも出たの?」
「いや、ちょっと確認したい名前があるんだけど……エルドって医務官、いる?」
ナージュは怪訝そうに首を傾げた。
「エルド……? そんな名前、聞いたことないわよ。うちの医務官名簿にも、そんな人いないはずだけど」
「やっぱり、そうだよな」
「何かあったの?」
「いや、ちょっと調べてることがあって。ありがと、また後で話すよ」
心配そうに見送るナージュに軽く手を振りながら、シュアンランは踵を返した。
「で?」
「ビンゴ。母さんも知らないって。医務局にその名前の医務官はいない」
「……名前はあるのに、存在しない。ってことは、偽名で納品記録を通してるってことか」
ランシーは帳簿を閉じ、机にドンと投げ出すように置いた。
「王宮内で素性の知れないやつが医務官のフリして活動してたって……これ、相当まずいよな」
「だな…。こっちの調査は、ユエとアドルフに任せる。こういうのは、あいつらの方が得意だ」
シュアンランは静かにそう言って、在庫記録の写しをめくる。
「俺たちは、材料の出入りを追う。ロズニカ根をはじめ、使用量に差異があるもの……出所と、消費先」
「まさか、材料の帳簿まで偽造されてるってことはないよな……?」
「それも、確認するしかない」
淡々と、だが確かに事態の核心に迫りつつある。
ふたりの視線は、帳簿の小さな文字の先――王国の闇へと、まっすぐに向けられていた。
「……見つけた」
倉庫区画の奥にある古い記録をめくりながら、シュアンランは低い声で言った。
「在庫記録がずれてる。ここ数ヶ月、納品は北側保管庫扱いになってるが……管理番号が違う」
「北側保管庫って、使われてないはずの場所だよな?」
ランシーが身を乗り出す。シュアンランは頷きつつ、広げた図面を示す。
「確か、あそこには王宮地下の旧連絡路があったはずだ。十年以上前に封鎖されたと聞いているが」
「封鎖された倉庫に薬が流れてて、地下通路までつながってる……」
ランシーの瞳が鋭くなる。
「これ、外部との抜け道が使われてる可能性があるな」
シュアンランは腕を組み、表情を引き締めて言った。
「だとしたら…ここで疑問が出てくるな。どうして“梟隊”が気づかない?」
ランシーが振り返る。
「今は王宮の警備強化されてるはずだ。女王直属の監視部隊だぞ?」
「それなのに使われてない倉庫に薬が入って、地下通路まで繋がってる。見逃されてるとは考えづらい」
シュアンランはゆっくりと図面の上に指を置いた。
「封鎖された連絡路……本当に誰も通れなかったのか」
ランシーと目を合わせ、シュアンランは冷静に言った。
「調査は続ける。ここまで来た以上、引くわけにはいかない」
「準備はいるな。下手に動くと、逆に俺たちが“処理”されかねねぇ」
「分かってる。殿下たちにも、あいつらにも伝える。ここから先は……俺らだけじゃ、危ない」
静まり返った資料室の中で、図面を畳むシュアンランの指が、一瞬だけ震えていた。
それでも、その目はまっすぐ前を見据えていた。