第九章 静かな浸蝕3
王宮の地下、古い石壁に囲まれた細い通路の奥。
かつては拷問や尋問のために使われていたというその一角は、今では地図にも記されていない“忘れられた場所”だった。冷気を含んだ空気が、しんと静まり返った空間を満たしている。
その中に、二つの影が浮かんでいた。
一人は、黒いローブのフードを深く被った青年。
もう一人は、服の襟を乱し目を伏せる若い獣人の兵士。狼種だろうか、わずかに覗く耳が時折ぴくりと揺れる。
壁際に置かれた粗末な木箱の上には、小瓶が数本並べられていた。光源は、壁に括りつけられた一本の松明のみ。揺れる炎に照らされて、瓶の中の液体が怪しく煌めく。
「……これを」
獣人の兵士が、不安げな声で言葉を発する。青年は応えない。ただ黙ってその瓶の一つを指先で持ち上げ、瓶越しに光を覗くようにして眺めた。
「いい子だね」
ぼそりと、低く。まるで獣をあやすような声で、そう呟く。その目が、わずかに光を反射した――銅色。
月の色でも、太陽の色でもない、どこか熱を帯びた金属の鈍い輝き。青年が微かに笑みを浮かべたその時だった。
「何者だ」
まるで影から滲み出るように、音もなく二人の兵士が現れた。黒い該当の肩章に、銀の梟が浮かぶ――女王直属の密偵部隊、“梟隊”。
「ここで何をしている」
鋭く、冷たい声。剣の柄に手をかけたまま、二人の兵は青年と獣人を警戒の目で囲むように立つ。だが、フードの男はまったく動じなかった。むしろ楽しげに笑い、手にした瓶をそっと木箱に戻す。そして、ゆっくりとフードを外した。
――次の瞬間。
「……っ」
二人の梟兵の表情が、一気に変わった。
驚き、動揺、そして一瞬の躊躇。
「なぜ、…あなたが、」
だが、その言葉を最後まで発することはなかった。
青年が、優しく言葉を紡ぐ。
「全部、忘れるんだよ?」
瞬間、空気が止まったかのような静寂。
松明の火が小さく揺れ、何かがぱたりと倒れたような音がした。
数刻後、
その場に残されていたのは、茫然と立ち尽くす梟隊の二人の兵士だけだった。目は虚ろに宙を見つめ、抜いた剣も持ったまま、ただ呼吸だけをしている。
青年と獣人の姿は、どこにもなかった。瓶も箱も、痕跡すら残されていない。ただ、石の壁に微かに残る焦げた匂いと、沈黙だけがそこにあった。
最初の兵士が倒れてから一週間後。
王宮の朝は、いつもと変わらぬ陽光に満ちていたが、そこに宿る空気は明らかに違っていた。重苦しい沈黙と、交錯する視線。ざわめく廊下の音すら、どこか刺々しい。症状を訴える兵士は日を追うごとに増え続け、今や第四軍の半数以上が医務室か、隔離された部屋に収容されていた。薬に含まれていた成分は未だ不明。解毒の手立ても見つからぬまま、医務官たちは昼夜を問わず処置に追われている。
「体温下がってきた! ランカ、聞こえてる!?」
飛び交う怒声と走る足音。
医務局の廊下は、戦場にも似た緊張で満ちていた。
訓練は、当然のように全面中止となった。薬を服用しま兵士が倒れていく中、薬を飲んでいなかった兵士たちは、空いた穴が埋まらないまま王都と王宮の警備に回されていた。“異常”を起こす者はいつ、どこで、誰になるか分からない。味方が次の瞬間に敵になる――そんな漠然とした不安が、兵士たちの表情を強張らせていた。
そんな中、シュアンランとランシーは事態の根源を断つため、二人で王国内部の薬物流通経路の調査を進めていた。
「軍内部に出回った量と、医務局が把握していた数がまるで合わないって、どう考えてもおかしいだろ」
「ああ、おかしいさ。薬そのものが“登録外”の可能性だってある。ユキにも確認とってるけど、民間ルートに流れた形跡もないし……」
二人は王宮の資料室と管理倉庫を往復しながら、薬品の記録を丹念に洗っていた。だが、記録上“存在しない”ものは、証拠もない。見えない糸を辿るしかなかった。
一方――王宮内部。
白狐の双子は、兵士たちと連携しつつ、王宮内部の巡回と突発的に現れる異常者の制圧にあたっていた。
「東棟の通路で一人、気絶しかけてた兵士がいた。対応は済んでるが、もうどこも安心はできねえな」
「僕も南側で一人確認した。症状自体は軽そうだけど、医務室へ連れていった」
「……お前は大丈夫か? 薬を止めて、もう三日目になるだろ」
ジンリェンの問いに、フーリェンはふと足を止めた。
確かに、彼が例の滋養剤の摂取をやめてから三日が経っていた。今、薬による異常をきたしている兵士たちの症状は、どれもその“三日目”あたりから現れ始めている。その意味で、フーリェンはまさに“境界”に立っていた。
「……まだ、何も。気分が沈むことも、体が重いこともない。普段と変わらない」
フーリェンは静かに答えながら、目線を遠くに送った。視線の先にあるのは、訓練場。いつもであれば声が飛び交い、汗と笑いと掛け声に満ちていたその場所は、今はただ静まり返り、空白のようにぽっかりと沈黙していた。
「……でも、いつ出てもおかしくないとは思ってる。接種量が少なかったのか、ただ運がいいだけか、僕自身の耐性の問題なのか、…分からないけど」
「何かあれば、すぐに言え。そのために組んでるんだからな」
ジンリェンはいつものように飄々とした調子で言いながらも、その声に宿る芯は揺るがなかった。
「うん、分かってる」
フーリェンは小さくうなずく。
自分の中にもし毒が巣食っていたとしたら――誰よりも早く、それを制する者が必要だった。
「何かあったら、お願い。兄さん」
その言葉に、ジンリェンは一歩だけ歩み寄ると、無言でフーリェンの隣に立った。
「任せとけ。俺が止めてやる。―それが俺の役目だからな」
冗談めかした口調の裏で、ジンリェンの琥珀の瞳は一瞬、鋭く細められていた。フーリェンは短く息を吐き、小さく笑ってみせた。その笑みは、まだ“余裕”の範疇にあった。だが、それがいつ崩れるかは誰にも分からない。
そしてふたりは、再び足をそろえて歩き出した。
訓練も声もなくなった広場の片隅で、ただ風だけが、どこか遠くで起こる嵐の気配を運んでいた。
刻一刻と、王都の“内部”が蝕まれていく。
誰が仕掛け、誰が動かされているのか。まだ、誰にも見えていなかった。