第九章 静かな侵蝕
夜の兄弟の話から、数日が経った。
相変わらず、兵士たちは訓練の合間に何の気なしに小瓶を取り出して飲んでいる。言われなければ見過ごしてしまいそうな、ごく自然な動作だった。フーリェンはあえてそれに触れず、黙って見守っていた。ただ、その静かな拡がりだけが、日に日に気にかかる。
この日は、ルカに付き添って王宮内の巡察に出ていた。秋の陽射しが大理石の床に柔らかく射し込む回廊。侍女や兵士たちがすれ違いに礼を取り、その傍らで訓練中の兵たちが整列する。その中には、第四軍の兵士たちの姿もあった。
――数日前より、明らかに動きが良くなっている。
肩の開き、重心の乗せ方、脚さばきの速度。
あれほどぎこちなかった構えが、別人のように滑らかになっていた。
フーリェンの視線がわずかに細まる。
そんな彼の横で、ルカがやわらかく声を上げた。
「彼ら、だいぶ訓練に慣れてきたみたいだね」
優しく笑むその表情に、フーリェンは反射的にうなずく。
「……そうですね」
けれど、その返事はどこか曖昧だった。目はまだ、訓練を続ける兵士の背中を追っていた。ルカがふと横目でフーリェンを見て、声の調子を少しだけ変える。
「何か、気になることでもあるのかい?」
その問いに、フーリェンの唇がわずかに動く。
迷いのなかで一拍置き、ようやく口を開こうとした、その瞬間――
「わっ……!」
列の端から、声が上がる。視線を向ければ、一人の兵士が鼻を押さえてうずくまっていた。赤い液体が、指の隙間から滴り落ちる。
「大丈夫?」
駆け寄るアンナの声が響き、周囲がわずかにざわついた。鼻血を拭いながら、兵士は照れたように笑う。
アンナが肩を貸すように手を添え、彼をゆっくり立たせる。その様子を見つめるフーリェンの背に、ふと冷たいものが這い上がった。理屈では説明できない。
けれど、体が言っていた。「これは、良くない」と。
それでも、口は動かない。どう伝えればいいのか、何を言えば信じてもらえるのか――まだ、言葉にならなかった。
「……後で、ゆっくり聞こうか?」
ふいに、ルカが優しく言った。フーリェンは思わず顔を上げる。ルカの眼差しは穏やかで、急かさず、ただ待つ姿勢だった。
「はい……」
ようやく、そう答えたその声に、自分でも気づかないほどの緊張が滲んでいた。巡察は何事もなかったように再開されたが、フーリェンの胸の奥では、何かが音もなく軋みを上げ始めていた。
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「ーと、いうことが、最近気になっていて」
ルカの執務室に戻った二人は、先程の会話の続きを話していた。僅かに開かれた部屋の窓からは、秋の涼しい風が吹き込み、穏やかな外の空気を部屋へと運んでいる。しかし、口を開いた当人ーフーリェンの心は決して穏やかなものではなかった。うまく説明は出来ない違和感と、自身の勘が告げる警笛。そして、数日前の兄とのやりとりが頭に浮かぶ。
フーリェンの話を静かに聞いていたルカは、一度深く考え込む素振りを見せたあと、ゆっくりと言葉を繋いだ。
「滋養剤、か…。確かに、新兵の動きは入った時と比べて格段に良くなっているとは思っていたけど…、それは日々の鍛錬の成果とも言えるだろうしね…」
けど、君は何か引っかかるんだろう?そう問いかけながら、ルカはフーリェンの揺れる目を見る。はい、と小さく頷くフーリェンを前に、ルカは頷くと傍らに置いたカップを手に、再び口を開いた。
「フーの勘は当たるからね。一度兄上たちに話そう」
それまで兵士たちの様子をよく見ておいて、と続けるルカにフーリェンは短く応え、部屋を後にした。