第九章 冬の気配と少しの違和感2
深夜。湯上がりの蒸気がまだ肌に残る廊下を、フーリェンは静かに歩いていた。濡れた髪を白い布で拭いながら、足音を忍ばせて、自室へ戻る途中、ふと、曲がり角の先にある扉の下から、淡い明かりが漏れているのが目に入った。いつもなら、夜は早く休む兄の部屋に灯があるのが珍しくて、フーリェンは一瞬足を止めた。
迷うような間を挟んでから、彼はそちらへと足を向ける。小さくノックすると、すぐに「どうぞ」と返ってきた。静かに扉を開けると、ジンリェンは椅子に座り、膝に開いた本を見下ろしていた。部屋には灯りがひとつだけ。蝋燭の炎が、自分と同じ白髪を照らして揺れている。
「どうした。こんな時間に」
顔だけをこちらに向けて、ジンリェンが問いかける。
フーリェンは何も言わず、しばらく彼を見たあと、小さく吐息をついてから答えた。
「……なんとなく」
そのまま、まだ水気を含んだ髪をごしごしと布で拭きながら、何の遠慮もなくジンリェンのベッドへと向かい、端に腰を下ろす。ジンリェンは特に咎めることもせず、黙って弟の様子を見ていた。やがて、何かを思い出したように言葉を投げる。
「調子は、どうだ?」
タオル越しに少し動きが止まる。布の中から聞こえてきた声は、短く明瞭だった。
「……軌道に乗った」
「そうか」
ジンリェンは頷き、本をそっと閉じる。ページを閉じる音が、しんとした部屋に小さく響いた。しばらくして、フーリェンが布を膝に置き、肩を回すように小さく伸びをした。
「気になってることが、ある」
ジンリェンの視線が、じっとフーリェンを捉える。
問い返すことなく、ただ続きを待つように。けれどフーリェンは、それ以上はまだ口にしなかった。言葉にするには、まだ曖昧で、確証がなくて――それでも、確かに胸に引っかかっていた。ほんの微かな異物感が、日常の中に混ざり始めている。それを、「異変」と呼ぶには、まだ早すぎるとしても。
ジンリェンは口を挟まない。けれど、それが「聞いていない」のではないことを、彼は知っていた。
沈黙の中に、促すような気配だけが漂う。それは、言葉を急かさず、しかし逃がしもしない、兄らしい“待ち方”だった。
フーリェンはしばらく視線を床に落とし、思考を組み直すように小さく息をついた。
「……滋養剤だと言っていた」
「…滋養剤?」
ジンリェンの声が一段だけ低くなる。だが、それは疑いではなく、関心を向けるための声色だった。
「医務官の許可を取っているって、そう話す兵士が何人かいた。最初は一人だったけど……数が、増えている」
「見たのか?」
「…うん。色と匂いは、薬草湯に似てた」
一言ごとに、フーリェンの声がわずかに鈍くなる。
「訓練や生活に支障は出ていない。むしろ、動きが良くなっている兵もいる。だからこそ……判断が難しい」
ジンリェンは立ち上がり、窓際へと歩く。カーテンを少しだけ開けて、夜の中庭を覗き込む。遠く、訓練場の木製の柵が月明かりに照らされていた。
「……実は、俺の方でも気になっていた」
低く落ち着いた声で、兄が言う。
「一軍の新兵が、同じような瓶を持っていた。本人は“医務官に処方された滋養剤”だと言っていたが……妙に周囲に隠すような様子だった」
フーリェンはその言葉に、目を細めた。
「いつ見た?」
「二日前。巡回中に偶然な。気にはなっていたが、今日明日で聞いてみようと思っていたところだ」
振り返ったジンリェンの表情には、珍しく警戒の色が滲んでいた。
「偶然にしては、拡がり方が早い。第四軍だけでなく、一軍にも届いているとすれば――何者かが意図して流している可能性もある」
「……兵士を狙って?」
「あるいは、“兵士の弱さ”に付け入って、だ」
ジンリェンは穏やかに言うが、その言葉には深い重みがあった。
「訓練の疲労、焦燥、不安……薬が与えるのは“効能”だけじゃない。“安心感”もだ。ああいうものは、心のほうが先に癖になる」
その言葉に、フーリェンは小さく目を伏せる。
「……僕も、それは思った」
ベッドに置かれていた布を手に取り、握る。
「薬に頼ることで、心が落ち着くなら――それを否定することが、正しいのかは分からない」
「それでも、気づいた以上は見過ごすわけにはいかない」
ジンリェンはそう返し、弟の隣に腰を下ろした。
「判断を急ぐ必要はない。だが、“静かに広がるもの”ほど厄介だ。気づいた段階で、共有しておくべきだった。……すまないな、俺も」
「……いや」
フーリェンは、短く返す。それ以上の言葉は必要なかった。兄も同じものに気づいていた。それだけで、肩の力が僅かに抜ける。ふと、蝋燭の炎が揺れた。風ではなく、気配のようなものに反応するように。
「しばらく、様子を見る」
フーリェンがそう言うと、ジンリェンも頷いた。
「何かあれば、すぐに動けるようにしておく。……あいつらにも、伝えておいた方がいいかもしれないな」
「……うん」
それだけを交わし、フーリェンは立ち上がる。
手にした布を脇に抱え、扉の前まで歩く。振り返らず、けれど確かに兄の存在を背に感じながら。
「おやすみ」
小さな声で告げて、扉を開ける。
「あぁ、おやすみ」
背中越しのジンリェンの声は、変わらず静かだった。
部屋を出たフーリェンの足音が廊下に消え、蝋燭の炎だけが、またひとつ揺れた