第九章 冬の気配と少しの違和感
第四軍の再編から、すでに3ヶ月が過ぎていた。
朝の空気に、ほんの僅かに冬の気配が混ざる頃。
訓練場にはいつも通りの声が響き、兵たちの足並みは一定のリズムを刻んでいる。隊列を見渡すフーリェンの眼差しは変わらず冷静で、無駄な言葉は口にしない。指導は簡潔で、厳格で、けれどどこか淡々としていた。彼にとってはそれが「いつも通り」であり、兵士たちにとっても、それは次第に「当然」になっていた。目に見えて信頼を示す者は少ないが、それでも――命令がよく通る。訓練の動きに迷いが減る。
その僅かな変化が、何より雄弁に物語っていた。
しかし、同時に――
その影で、一部の兵士たちに奇妙な変化が見え始めていたのも、ちょうどこの頃だった。
最初に気づいたのは、ある朝、給水場のそばだった。
テーブルの端に、見慣れない小瓶がひとつ。無記名で、主のいないまま置かれていた。
「誰のだ?」
フーリェンの問いかけに、少し間を置いて、一人の新兵が静かに手を挙げた。姿勢は正しく、表情もどこか自信に満ちていた。
「滋養剤です、隊長。医務官の許可もいただいています」
フーリェンは黙って小瓶を手に取り、目の前で蓋を開け、軽く香りを嗅いだ。かすかに薬草の匂いがしたが、それだけでは判別できない。ひと呼吸置いてから、彼は兵士に瓶を返した。
「置きっぱにするな。持っていかれるぞ」
短くそう告げただけで、深くは追及しなかった。
新兵は瓶を受け取ると、その場から下がっていった。
その背を、フーリェンはしばらく無言で見送った。
それ以来だった。訓練の合間や休息中に、同じような小瓶を取り出し飲み干す兵士の姿を、彼が度々目にするようになったのは。
あの朝に見た瓶と、似た色、似た形。それは決して目立つ行為ではなかった。だが確かに、静かに――それは広がっていた。
給水場での一件を境に、フーリェンは注意深く兵たちの様子を観察するようになっていた。訓練の動き、食欲、言動、交友。いずれも極端な異変は見られなかったが、それでもどこか――僅かな「過剰さ」が引っかかった。そして、それを感じていたのは、彼だけではなかった。
ある日、夕方の訓練後。沈みかけの陽に照らされた演習場で、木刀を手に汗を拭う兵たちを、三人の部下が黙って見つめていた。アンナ、シュナ、リンリィ。いずれも第四軍の中堅を担う、信頼のおける者たちだ。
「なあ」
背後からかけられた声に、三人が一斉に振り返る。
そこにいたのは、無表情のまま歩み寄ってくるフーリェンだった。
「……最近、あいつらが飲んでるアレ、何か知ってるか?」
淡々とした問いかけに、三人は顔を見合わせ、答えに迷うように眉をひそめる。
「例の、瓶のやつですよね?」
先に口を開いたのはリンリィだった。
「滋養剤だって言ってましたけど……成分までは」
「俺も聞きました。ほとんどの奴が“医務室で許可されたやつだ”って言うんです」
シュナが腕を組み、首をひねる。
「見せてもらって、ちょっと味見もしたけど……特に変な感じは……。たまに出される薬湯に似てるような…、あれに比べたらずっと飲みやすいくらいでした」
「今のところ、訓練や生活に支障は出ていません。むしろ、集中力が増したような気も…」
最後にアンナが言葉を繋ぐ。
「……もう少し様子を見てから、対処を考えるべきでしょうか?」
フーリェンはしばらく答えなかった。
落ちる夕陽の中、黙って訓練場の方へ目を向ける。
そこでは、兵士たちがまるで機械のように、一糸乱れぬ動作を繰り返していた。確かに優秀だ。目に見える成果は上がっている。
だが――
薬に頼ることで、心が保たれているなら……それを否定する資格が、自分にあるだろうか、と心の中で、そんな問いが生まれ、また沈んだ。
「……判断は、保留だ」
やがてフーリェンは静かにそう告げる。
「しばらく様子を見る。何か変わった兆候があれば、すぐに報告してくれ」
三人は頷き、それぞれの視線を再び訓練場へと戻した。
冷たい風が吹き抜け、落葉が足元を舞う。
それは、ほんのわずかな季節の移ろいだったが――
同じように、第四軍の中にも、気づかれぬまま“何か”が変わりつつあった。