第八章 挑発2
昨日の激しい空気がまるで幻だったかのように、訓練場にはいつもと変わらぬ朝の陽光が差し込んでいた。
空は晴れ渡り、吹き抜ける風が砂煙をさらいながら、若き兵士たちの間を駆け抜けていく。
第四軍の一日は、何事もなかったかのように、規則正しい号令とともに始まった。だが――ほんの少しだけ、昨日と違うものがあった。
それは、新兵たちの視線だった。
木剣を手に取って整列する兵士たちの目が、訓練場の端に立つ一人の白狐に向けられていた。無表情で、整然とした姿勢。しかし昨日、あの場で見せたただ一太刀が、誰の記憶にも鮮明に焼き付いている。
あの目。
あの動き。
あの静けさの中に秘められた、凄絶なまでの強さ。
「やっぱ……すげえんだな、あの人」
「うん。ちょっと前まで、なんで隊長なんだろうって思ってたけど……」
「俺、あんなふうになりたいかも」
そんな小さな声が、昨日までとは逆の温度を帯びて交わされていた。
だが、当の本人――フーリェンは、その変化など最初からなかったかのように、淡々と歩を進め、各班の様子を見て回っていた。無駄な言葉はない。ただ、時折小さく的確な指示を投げるのみ。それでも、その言葉一つひとつが重みをもって兵士たちの耳に届いているのは、昨日の出来事が確かに彼らの心を変えた証だった。
そんな中、一人の少年が、ぼさっとした赤毛を揺らしながらフーリェンのもとへ歩み寄る。
「……おい、隊長」
呼びかけられたフーリェンが、ゆるやかに振り返る。
その目が、遮るものなく一人の兵士の顔を捉える。
「まだ、あんたのこと、認めてねぇよ」
むくれたような顔に、噛みつくような声。その口調には相変わらず棘がある。だがその言葉の裏には、昨日とは違う、真っすぐな熱が宿っていた。
「あんたの能力も、底力も、何も知らねぇ。見せてもらってもねぇ。あれだけじゃ判断できねぇし」
オスカーは木剣を握る手に、ぐっと力をこめた。
「だから……次の再編までに、俺があんたから一本、獲る。絶対に、だ」
その言葉に、フーリェンの瞳がわずかに揺れる。
そして――ほんの、ほんの一瞬。
その端整な顔に、誰もが驚くような表情が浮かんだ。
蠱惑的な、挑発するような笑み。それは普段の無表情な彼からは想像もつかない、ほんのわずかな、だが確かに“感情”を宿した笑みだった。
「……獲れたらいいね。一本」
しなやかに片手で木剣を肩に乗せたまま、フーリェンは静かに言った。
「……でも、簡単には獲らせないけど」
言葉は柔らかく、声は落ち着いていた。だがその奥には、底の見えない深淵のような静かな闘志があった。
そのやりとりを聞いていた兵士たちの間に、にわかにざわつきが走る。お互いに目配せをし、誰からともなく肩を張り直すような動きが起きた。
「なんか……やる気出てきたな」
「俺も、あの人から一本、獲れるようになりたい……」
「いや、まずはリンリィ班で怒鳴られないことからだろ、お前」
「ちっ、現実的なこと言うなよ」
笑い交じりのやりとりが、訓練場のあちこちから零れ始める。
雲行きが怪しかった第四軍――
不満と不信の影がちらついていたその空気が、いま確かに変わりつつあった。若さと未熟さを抱えながら、それでも一つの隊として、ようやく“同じ方向”を見始めた。
そんな変化を、フーリェンは気づいていないふりをしながら、そっと耳を澄ませていた。尻尾がわずかに揺れていたのは、誰にも気づかれていなかった。
第八章 再編成編 完