第八章 ずっとここにいる者
【登場人物】
オスカー…フーリェンに不満をもっている新兵。ジンリェン同様、炎を操る能力を持つ。
オスカーの剣が火を纏い、唸りを上げながら迫る。
振り下ろされる一撃は、新兵のものとは思えぬ鋭さと熱量を帯びていた。火花が地を焦がし、熱気が空気を震わせる。
だがその一撃は、フーリェンの姿を捉えることはなかった。
「っ……!?」
オスカーの眼前から、フーリェンの姿が消える。
否、消えたのではない。重心をかすかにずらし、火の軌道の外へ流れるように身を滑らせただけだった。
そのままフーリェンは低く姿勢を落とし、オスカーの懐へと一気に踏み込む。
咄嗟に剣を引き戻し、振り払おうとするオスカー。
しかし、彼の動きはそれよりも速かった。鋭く、無駄のない軌道で鞘がオスカーの左足首に向かって払われる。直撃は避けたものの、バランスを崩したオスカーの身体がぐらつく。
「……動きが粗い。火の勢いに任せすぎだ」
フーリェンは静かに告げる。
「だまれっ!!」
オスカーが怒声を上げ、全身を燃え上がらせる。
その火力は、さきほどまでとは比にならない。炎が空気を歪ませ、木剣の一振りすらも、周囲の空気を裂く熱波となって押し寄せる。
それでもフーリェンは、怯まなかった。
一歩も下がらず、炎の中心へと踏み込んでいく。
火の熱を避けるような素振りすら見せず、そのまま火線を突っ切る。
「な……っ!?」
驚愕の声を上げたのはオスカーだけではない。周囲の兵士たちも、思わず息を詰めた。燃え盛る刃がフーリェンの額すれすれをかすめるも、決して彼の身体に触れることはなかった。
鞘を振る。その一撃が、正確にオスカーの手元を狙い、剣を持つ腕をはたく。炎が散り、剣の軌道がまた逸れる。
「チッ……!」
それでもオスカーは引かない。
全身を使って踏み込み、火の勢いと共に渾身の突きを放つ。
──その瞬間、フーリェンが動いた。
鞘を逆手に持ち替え、流れるように腕を上げたかと思えば──
「ッ!」
オスカーの脇下に一瞬で潜り込み、軸を崩すように膝を打ち込み、体重ごと振り払うように投げ飛ばした。
「──がっ……!」
それでもオスカーはまだあきらめなかった。火花を散らして斬撃が振り下ろされる。灼熱を帯びた炎が、剣の刃を這い、唸りを上げながらフーリェンに迫る。それは全力だった。オスカーが持ち得る限りの熱と憤りを乗せた一撃。
しかし、
「──また、同じ手か」
低く掠れるような声が、炎の中から聞こえた。
ひゅ、と風を切る音と共に、フーリェンの細身の体が半歩横へ滑った。それだけで、灼熱の斬撃はまるで幻を斬ったかのように宙を裂き、虚しく地面を焼くだけに終わった。
「っ……ちょこまかと……!」
歯噛みするように叫び、オスカーはすぐさま剣を構え直す。続けざまに繰り出される斬撃、火の迸り、足運び。戦場であれば、確実に敵を焼き殺すはずの一連の攻撃。
それを──フーリェンはまるで「先に見えていたかのように」すべて捌いていた。足捌きに淀みはない。重心は常に最小限の移動で敵の攻撃の線をかわす位置に置かれ、手にした鞘の一閃が、オスカーの腕や膝、腹部などの隙を的確に打ち据える。
オスカーの息が荒くなりはじめた。焼けた空気が肺を刺す。熱を纏ったまま全力で戦い続けることの代償は、想像以上に身体を蝕んでいく。
にもかかわらず──
フーリェンの呼吸は、乱れていなかった。
顔色ひとつ変えず、額に汗ひとつ浮かべず。長い睫毛の奥にある琥珀の瞳は、ただ淡々と、しかし一寸の狂いもなくオスカーの動きを見据えていた。
「……お前、なんで……疲れてない……」
「疲れるほどの強敵なら、僕はもうとっくに地に伏してるよ」
無機質に返されたその言葉は、どこか淡白で、あまりに真っ直ぐだった。
オスカーの炎がもう一度渦を巻く。
自分のすべてをぶつけても──届かない。
それを誰よりも強く感じていたのは、他でもないオスカー自身だった。
「ふざけんなッ!!」
咆哮と共に最後の一撃を振り抜こうとした、その刹那。フーリェンの身体が地を這うように前へ滑り出た。振り下ろされる前の剣の軌道に、逆手に持った鞘が割り込む。刃が通る前に、柄の根本でオスカーの手首を制し──そのまま回転するように、彼の身体を地へと伏せさせた。
「ぐっ……!」
背中が地面に叩きつけられ、全身に衝撃が走る。
火が散り、木剣が手から滑り落ち、音を立てて転がった。全身を包んでいた炎も、もう燃料を失ったように揺らぎ、掻き消えた。押さえつけられたまま、オスカーが歯を食いしばる。
それでも──その上から、フーリェンは怒声を浴びせることはなかった。代わりに、押し殺したような静けさを孕んだ声で、ぽつりと問うた。
「今、逃げようとしたな」
低く、乾いたその声音に、剣より鋭い怒気が宿る。
まるで何もかもを見透かしていたかのように。
その言葉に、オスカーの背筋が粟立った。
周囲の空気が凍りつく。誰一人として動かず、声も漏らさず。訓練場の全員が、ただその言葉の重みと、冷たい眼差しに呑まれていた。
オスカーは答えられなかった。
自分が何をしようとしていたか──それは自分自身が一番、よく分かっている。勝てないと悟ったとき、振りかざした剣は怒りではなく、ただの逃避だったのだと。
だがそれを、言葉にはできなかった。
できるはずもなかった。
ただフーリェンの瞳だけが、動かぬまま彼を見下ろしていた。