第八章 挑発
フーリェンは無言のまま、地面に落ちていた木剣に視線を落とした。それを無造作に拾い上げると、怯えている青年の足元へ、放るようにして投げ返す。木剣は地面を軽く跳ねて、怯える兵士の足元で止まった。
「……オスカー」
静かな声が訓練場に響いた。フーリェンが初めて、彼の名前を呼んだ瞬間だった。普段、訓練中に名前を呼ばれることは少ない。それでも、彼が隊の誰の名前も、顔も、能力も記憶していることは、誰もが薄々知っていた。
だが──目の前で自身の名を呼ばれたことに、オスカーは明らかに動揺した。
「……え?」
思わず、声が漏れる。
「お前の能力は、炎か」
そう続けるフーリェンの声には、怒りも嘲りも、誇張された感情すら乗っていない。ただ、無表情に──事実をなぞるだけのように、静かに言葉が流れ出た。
「……僕の兄も、同じ能力を使う」
その言葉に、ざわめく兵士たち。何人かは息を呑んだ。第一軍隊長であり、火を操る“白狐”ジンリェン──誰もが知るその名が出てくるとは思わなかったのだろう。
「……そうですけど」
しばしの沈黙のあと、オスカーがぶっきらぼうに答える。怯えは完全に消えてはいないものの、先ほどの恐怖はどこかに押し込められていた。むしろ、その声には開き直ったような、意地を見せるかのような刺がある。フーリェンはその様子を見ても、特に反応を変えなかった。ただ一歩だけ、地を鳴らすように踏み出して言う。
「なら、僕への手加減はいらない。使いたかったんだろ?」
周囲がざわつく。フーリェンの目は、まっすぐオスカーだけを見据えていた。
「存分に使え。ただし僕は──能力は使わない」
一瞬、訓練場が静まり返った。
オスカーの眉がピクリと動いた。目に明確な怒りが宿る。
「……能力を使わず、俺に勝つつもりですか?」
そう言い放つ彼の声には、ほんの少し、勝ちたいという焦りと、侮られたという反発心が滲んでいた。訓練場の空気が一瞬にして張り詰めた。静かに、しかし確かに挑発の熱を孕んだ声音で、フーリェンは「そうだ」と言い放つ。そして、感情の乗らないその声で、言葉を続けた。
「鍛錬を積んでも、ずっとここにいるのはどこの誰なのか……教えてやる」
その言葉に、周囲の兵士たちが息を呑む。
──それは、つい数日前、第一軍の訓練見学の際、オスカーたちが口にしていた小言、そのままの言葉だった。小さなざわめきが起こり、数人の新兵がビクつくように目を逸らす。その中で、オスカーは目を見開き、明らかに動揺の色を浮かべながらも、無理に強張った顔で前を睨み返す。だが、フーリェンはそれには目もくれず、静かに傍らに落ちた短剣を拾い上げる。
金属が鞘を擦る、鋭い音が、訓練場に鋭く響く。現れた刃は太陽を反射し、青白く光る。獣の目のように鋭く、迷いのない刃。──それだけで、数名の兵士が息を飲み、身じろぎするのをやめた。そして、フーリェンはその刃を軽く持ち直し、「……アンナ」と一言だけ声を掛け、次の瞬間、迷いなく刀身の方をアンナの元へ投げた。
「わっ──」
アンナは咄嗟に能力を発動させ、重力操作によって刃の軌道をずらしながら空中で止める。宙に浮いたそれを掴み、困惑したようにフーリェンを見ると、彼は静かに、しかししっかりと手元に残った鞘を握り直していた。
──鞘一本。
フーリェンはそれだけで、炎の能力を持つオスカーに挑もうとしていた。
「……!」
そのあまりにも一方的で、しかし明確な覚悟の示し方に、訓練場にいた誰もが息を飲んだ。オスカーの顔に、明らかな苛立ちと戸惑いが浮かぶ。歯を食いしばり、握った木剣に炎を纏わせながら、一歩、また一歩とフーリェンに詰め寄る。
そのとき、再び彼の口が開く。
「お前が、僕から一本獲れたら──第一軍へ移動させてやる」
言った瞬間、訓練場にざわつきが広がった。誰もがその言葉に驚き、アンナさえ一瞬、手にした短剣を落としそうになる。オスカーの目が揺れた。
「それ……本当ですね?」
息を呑んだように言うと、燃え上がる炎の熱を纏いながら、彼は地を蹴った。
「なら、遠慮はしません!!」
地を焦がし、音を裂き、オスカーが一直線にフーリェンへと飛び込む。炎の刃が、まっすぐに軌道を描き、斬りかかってくる。
フーリェンは、ただそこに立っていた。
そして──
鞘を、構えた。
決して刀を抜かない者の構え。その覚悟が、すでに言葉以上の意味を持っていた。