第八章 不満
再編成から一ヶ月が過ぎた頃、訓練場は朝の澄んだ空気の中で活気に満ちていた。兵士たちはそれぞれの班に分かれ、日々の鍛錬に励んでいる。長い戦歴を持つベテランもいれば、新たに入隊した若手も混ざり合い、そこには新たな緊張感と期待が入り混じっていた。
今の第四軍は、身体能力や能力の安定度に応じて、四つの班に分けられている。能力のコントロールがまだ不安定な兵士たちはアンナの班に集められ、彼女の的確な指導のもと、徐々に自らの力を制御する術を学んでいた。判断力にやや遅れがちな兵士たちはシュナの班に属し、戦術理解を深めている。そして、基礎体力や動作がまだ未熟な兵士たちはリンリィが引き受け、その丁寧な指導によって動きの基礎を固めていた。
フーリェンはというと、能力の操作には申し分ないが、まだ基礎的な身体動作が未熟な兵士たちを担当していた。彼の班には、新兵の中でも彼に対して不満を抱く者も混じっている。第四軍の結成から日は経ったが、今だフーリェンの指揮力や戦術的な能力に疑問を持つ声も小さくはなかった。しかし、フーリェンはそれらの声をあまり気にしはなかった。何よりも、この班分けは能力の安定度や身体能力別に分けられたものであり、感情的な問題を避けるための合理的な措置でもあったからだ。
訓練場の熱気がまだ残る中、フーリェンが班の動きを見守っていると、遠くから見覚えのある姿が近づいてきた。その人物―シュアンラン率いる第二軍の副隊長に就任したばかりのユエは落ち着いた表情でフーリェンに近づき、低く声をかけた。
「フーリェン、確認したいことがあるので、少しお時間をいただきたい」
その言葉に、フーリェンは迷いなく頷いた。リンリィに目で合図を送り、班の指揮を任せることを伝えると、軽く礼をして訓練場の端へと向かう。彼の背中を見送る第四軍の兵士たちは、リンリィの指示に従い、休憩時間に入ることになった。
訓練場の隅に腰を下ろしたフーリェンとユエは、彼の手元にある名簿を覗き込みながら、来週の夜巡回に第四軍からどの兵士を出すのか、そして時間の調整について話し合っていた。名簿の文字を指で辿りながら、ユエが静かに切り出す。
「フーリェン、次の夜巡回、第四軍からは誰を出せそうですか?何か問題があれば早めに教えてほしいです」
フーリェンは名簿に視線を落としつつも、訓練場の方へ意識の半分を向けていた。目の前で汗を流し、黙々と基礎訓練に励む兵士たちの姿は、見た限り問題なさそうに思えた。
「今のところ、問題はないと思う。念のため、しっかり様子は見ておく」
そう答えようとした瞬間、突然耳に届いたのは訓練場の一角から響く二人の兵士の言い争う声だった。フーリェンはすぐに顔をそちらへ向ける。土埃が舞う訓練場の隅で、背中を地面につけて転がっているのはリオンだった。その目の前には、声を荒げて突っかかる若い兵士の姿があった。
「おい、リオン!お前はいつまで経ってもまともに能力を使わせてもらえないんだってのに、文句一つ言わないのかよ!」
その声は風に乗ってはっきりと聞こえてくる。
リオンも必死に言い返している。
「僕はやれることをやってるよ。焦んなよ、まだその時じゃないだけだよ」
アンナがすぐに二人の間に割って入ろうと歩み寄ったその時、声を荒げていた兵士が突然、手に持っていた木剣に炎の能力を纏わせ、振りかざそうとした。
「やめて!」とアンナが叫ぶ。緊迫した瞬間が、訓練場に冷たい空気を走らせた。
剣を振りかざそうとした兵士の動きを一瞬で見抜いたフーリェンは、ためらいなく腰に提げた短剣を素早く引き抜いた。次の瞬間、周囲の空気が張り詰めるのを感じながら、迷うことなくそれを投擲する。短い刀身はまるで狙いを定めたかのように一直線に飛び、兵士の手元にある木剣に寸分違わず命中した。剣は兵士の手から勢いよく弾かれ、音を立てて地面へ落ちる。
その場にいた誰もが一瞬息を飲み、驚愕の表情を浮かべた。しかし次の瞬間、フーリェンはまるで風のような速さで兵士との距離を詰め、まばたきさえ許さぬ動きで兵士を掴み、強引に地面へと叩きつけた。兵士は驚きの声を上げ、恐怖に震えながら抵抗しようとするが、フーリェンの力は揺るがなかった。周囲の兵士たちも怯え、息を潜めてその静かな殺気に圧倒されている。フーリェンの顔にはいつもの無表情さはなく、誰もが目を背けたくなるほど冷たく、鋭い視線で兵士を睨みつけていた。その眼差しは言葉を超えた圧力となり、場の空気を凍りつかせる。静かに地面に組み伏せられた兵士を睨みつけるフーリェンの瞳には、静かな怒気が宿っていた。
「今、何をしようとした」
彼の声は低く、しかしその一言に込められた怒りは凄まじく、訓練場のざわめきは一瞬で消え去った。兵士たちも言葉を失い、動くことすらできずに凍りつく。
その静寂の中で、兵士の視線は震え、返す言葉もなくただ俯くばかりだった。
「能力を使わせてもらえない不満……だと?」
フーリェンの声は低く、静かながらも凛とした厳しさを含んでいた。
「ここは訓練の場だ。勝手な思い込みやわがままを許す場所ではない。全員が全力を尽くすのが最低限の礼儀だ」
声が静かに響き渡る中、兵士は小さく俯きながらも言い訳ができなかった。フーリェンはゆっくりと立ち上がり、無言で周囲の兵士たちを見渡した。兵士は震えながら地面に伏している。先ほどの威勢はどこへやら、その表情はすっかり怯えに変わっていた。その隙を逃さず、フーリェンは冷たく追い打ちをかけるように声を落とした。
「僕が、隊長に相応しくない、だったか。」
不意に繋がれたその言葉に、近くにいた数人の兵士が思わず身を震わせた。緊張がじわりと周囲に広がる。遠くでその様子を見ていたユエに、フーリェンは静かに問いかける。
「用事ができた。話は終わってからでもいいか?」
ユエは柔らかく微笑みながらも、目線は怯える兵士たちに向けたまま、静かに頷く。フーリェンはそのまま地面に倒れ込んだリオンに優しく声をかけ、ゆっくりと身体を起こさせた。次に、近くにいたアンナ、シュナ、リンリィに向き直り、低い声で指示を出す。
「関係のない兵士を、訓練場の隅に」
すると、ざわめきが訓練場の隅に広がり、動揺した兵士たちが少しずつ移動を始める。
こうして残ったのは、フーリェンと、地面に倒れ込んだままの兵士だけとなった。