第八章 心の内
夕方、最後の新兵たちを兵舎まで送り届けた後、フーリェンはふっと小さく息を吐き、首筋を伸ばすようにゆっくりと両腕を上げて伸びをした。夕陽の光が訓練場の端を照らし、赤く滲んだ光が長く影を引いている。訓練の一区切りに安堵しながら、彼はひとり王宮の回廊を歩いていく。白を基調とした石造りの廊下は、夕陽を柔らかく反射し、どこか心を鎮めるような静けさがあった。だがその静けさとは裏腹に、昼間耳にしたあの言葉がふとフーリェンの脳裏に浮かぶ。
「鍛錬を積んでも、ずっとここにいるのは、どこの誰なんですかね……」
あからさまな攻撃の意図を孕んだその声。その言葉に対して淡々と返したつもりだったが、心のどこかで確かに何かが引っかかっていた。
(ああいう感情を、真正面から向けられたのは……いつぶりだろう)
そう思った瞬間、フーリェンはふと自分が思っていた以上に精神が削れていたことに気づいた。胸の奥が重く、じわじわと疲労が滲み出してくるようだった。
小さく肩を落としながら歩いていると、後ろから足音が近づいてきた。そして、背後から声がかかる。
「……おい、なんだその背中。めっちゃ元気ないじゃん」
振り返ったフーリェンの目に飛び込んできたのは、土汚れのついた隊服姿のランシーだった。どうやら午後の訓練に同行していた後、片付けを終えたまま来たらしい。不意を突かれたこともあり、咄嗟に驚いたフーリェンの身体は、無意識のうちに反応していた。白狐の姿が目の前の獅子を模倣し、まるで夕陽のようなたてがみが現れる。その姿を見て、ランシーの目がまん丸になる。
「……えっ、ちょ!?」
フーリェン自身もハッとして、自分の手元を見る。そのたくましい指先に違和感を覚え、すぐに息を吐いて能力を解いた。狐の耳と尻尾が戻り、細身の本来の姿へと戻る。
「……悪い、無意識だった」
呆れたように笑うランシーと、わずかに眉をひそめるフーリェン。けれどその姿には、さきほどよりもわずかに力が戻っていた。ランシーは、目の前でいつもの姿に戻ったフーを見て、小さく息を吐いた。
無意識に模倣するなんて、ただの驚きじゃない。心がどこか限界に触れている証拠だ。だからこそ、彼は何も言わずに辺りをさっと見渡し、回廊の曲がり角や柱の陰に誰の気配もないことを確かめた。
「……少し、立ち話でもしねぇ?風、気持ちいいし」
そう言って、壁にもたれかかるように立ったランシーは、あえてくだけた調子で話しかけた。
「最近どうだ?慣れてきたか?」
問いかけは穏やかだったが、その声色にはさりげない気遣いが込められている。
フーリェンは一瞬だけ迷うように目を伏せたが、やがて静かに頷いた。
「……動きは悪くないけど、思ってたよりも、癖の強い子が多い」
「ま、若いからな。あれくらいの年頃なら、力の使い道と一緒に心も迷走してんだろ」
ランシーの言葉に、フーリェンはふっと小さく笑った。声にはならなかったが、その表情は確かに緩んでいた。
「……リンリィが、また噛みつこうとしてた」
「ああ、目に浮かぶな。あいつ、妙に忠義深いっていうか、過保護だよな」
「……いちいち、気にしなくてもいいのに」
ぽつ、ぽつと、フーリェンが話す。普段なら、兄やシュアンランがいなければほとんど口を開かない彼の、その静かな声を、ランシーは一言も遮らず、ただ頷きながら聞いていた。
「自分の足元が、いま何でできてるのか、わからなくなる時がある」
「お前みたいに、上手くやれている気がしない。…新兵の顔を見てると、余計に」
「でも、名前で呼ばれるだけ、まだマシか」
そうぼやくように言ったフーリェンの声に、ランシーは少しだけ目を細めた。
静かな回廊に、しばし言葉が途切れる。フーリェンは手すりの向こうに傾きかけた夕日を見ながら、ふと自分の胸の奥を確かめるように小さく息を吐いた。
「……こんなに話すつもりじゃなかった」
ぽつりとこぼれるその声は、どこか自嘲的だった。
その言葉に、ランシーは「ふーん」と笑いながらも、ゆるやかに首を縦に振った。
「まあな。正直、ちょっと驚いた」
だがその声色には責めるような響きは一切なく、むしろ柔らかい共感が滲んでいた。
「お前は自分に対して鈍いからな。疲れてんだろ、いろいろと」
その一言に、フーリェンはしばらく黙ったまま、細く揺れる影の中で立ち尽くした。
やがてほんの少しだけ口元を緩めて、「……うん」と、息のような返事を返す。
ランシーはその声を聞くと、どこかいたずらを思いついた子どものような目で彼をを見つめ、「じゃあさ」と言いながら、顎で廊下の先――訓練場の方を指した。
「お前も少し、体を動かせ。新兵の相手ばっかで、しばらく鍛錬できてなかったろ?」
不意を突かれたフーリェンは、きょとんとした顔でランシーを見る。
「……え、今から?」
「そう、今から」
「いや……お前、疲れてるんじゃ……」
そう言いながら、フーリェンはランシーの隊服に目をやった。ランシーは足元から裾にかけて泥が跳ね、腕には薄く擦り傷が残っていた。午後の訓練でかなり動いたはずだ。それでも――ランシーは飄々と笑って言った。
「俺はな、頑丈さが取り柄の第三軍の隊長なんだよ。こんくらいじゃへこたれねぇ」
そしてひょいと肩をすくめると、先に立って訓練場へと足を向けた。
その背中を見たフーリェンは、わずかに眉を上げた後、少し遅れてその背を追いかけるように歩き出す。
夕暮れに沈む王宮の訓練場へ、白狐と獅子の隊長が並び立つように歩いていった。