第八章 不安と不満
第四王子ルカの執務室は、早朝の光を受けて柔らかな金の光に包まれていた。背の高い窓からは朝靄の溶けかけた庭園が見下ろせ、遠くで衛兵の掛け声が小さく反響している。
「……第四軍への新兵の導入、滞りなく終了しました」
フーリェンは、相変わらず感情の起伏を感じさせない声で、淡々と報告を告げた。執務机の奥で書類に目を通していたルカは、顔を上げて微笑む。
「報告ありがとう」
「……当然の務めです」
「ふふ、そういう言い方、変わらないね。で――新しい子たちは、どう?」
問われたフーリェンは一拍、間を置いた。耳がぴくりと揺れる。
「……体力面は基準以上です。ですが、能力制御には差があり……隊単位での連携には、時間がかかると思われます。個体差が大きく、評価は分かれますが……兵としての素質は、全体的には悪くないと判断しています」
語る言葉は冷静で、どこか機械的ですらあったが、耳と尻尾が落ち着きなく動いているのは隠しようがなかった。普段は制御された柔らかな白毛が、今朝はやや立っており、細かく震える尾が机の下で何度も左右に揺れていた。
「ふふ……」
ルカは小さく笑った。
「フー、緊張してるの、ばれてるよ」
「……していません」
一瞬、口をつぐんだフーリェンが答える。
「尻尾と耳が、いつもよりせわしないよ」
「…………」
「気にしないで。可愛いなと思っただけだから」
さらりと言われて、フーリェンは微かに耳を伏せた。
ルカは手元のペンを置き、椅子を引いて立ち上がる。そのままゆっくりと机を回り込んで、フーリェンの前へと歩み寄ってきた。
「……?」
フーリェンは不思議そうにルカを見つめる。
「ちょっとしゃがんでくれる?」
不思議に思いながらも、フーリェンは素直に片膝をつき、目線を少しだけ下げた。
すると、ルカは軽く微笑み――その額に、そっと唇を寄せた。ほんの一瞬。優しく触れるだけの、静かなキス。
「……っ」
フーリェンの背筋がぴんと伸びる。動揺が、抑えきれず耳に走った。それは、幼い頃から――不安に飲まれそうなときに、ルカや兄がよくしてくれていた仕草。
久しく忘れていたその記憶が、胸の奥で微かに音を立てて蘇る。
「大丈夫。君は、よくやってるよ」
低く、しかし力のこもった声でルカが言った。
「新しい隊でも、ちゃんとみんな見てくれてる。安心して」
「……ルカ様……」
震える尾が、ぴたりと止まった。それでも表情に大きな変化は出ない。だが、耳が静かに伏せられ、長い睫毛の陰で瞳が僅かに揺れていた。
「……はい。ありがとうございます」
ルカは満足げに微笑み、そっとフーリェンの頭に手を置いた。新たな隊を背負うその背中に、今日も変わらぬ信頼が注がれていることを、何よりも強く伝えるように。
ルカの手が離れたあとも、フーリェンの額にはまだ仄かに温もりが残っていた。
「……行ってきます」
小さくそう言って頭を下げた彼に、ルカはうなずきながら「行ってらっしゃい」と返す。
執務室を出て廊下を歩くうちに、先ほどまでざわめいていた心は、すっと静かになっていった。
迷いも、不安も、完全に消えたわけではない。けれど――今は、目の前の責務を全うすることが第一。
朝の光が傾く頃、訓練場にはすでに掛け声が響き始めていた。
再編から早くも二日目。第四軍は三つの小隊に分かれての基礎訓練へと移行していた。指導役を担うのは、アンナ、シュナ、リンリィの三人である。
アンナ班は、彼女の重力操作を使った間合い調整や立ち回りの訓練。シュナ班は、野営や陽動を想定した集団行動の基本。そしてリンリィ班は、能力を持たない兵士を中心に、体術と基礎剣術の確認を重点的に行っていた。
それぞれの指導内容は事前にフーリェンが目を通していたが、彼は直接は指示を飛ばさない。訓練場の片隅から、鋭く静かな双眸で全体を見渡していた。
まずはリンリィの班へと足を運ぶ。鍛錬用の模擬剣を構えた新兵たちが、ぎこちない足さばきで基本の型を反復していた。
「……右足が半歩前に出てる。剣の重心が流れる」
すっと近づいたフーリェンの声に、訓練に集中していた新兵が驚いたように肩をすくめる。
「は、はいっ!」
「もう一度、構えから。息を止めるな。力を込めるのは、打ち下ろす瞬間だけでいい」
無駄のない指摘。それだけで、剣の軌道が確かに改善された。
次に向かったのはシュナ班。
ここでは、仲間との連携と、指示の伝達を兼ねた簡易演習が行われていた。
「……仲間の声が聞こえているか。反応が遅い。敵を想定して、もっと警戒を」
「す、すみません!」
シュナが後方で指示を出しているのを見届けたフーリェンは、ひと言ふた言だけ添えて、すぐに次の班へと足を運ぶ。
そして最後に、アンナ隊。
ここでは重力の負荷を模した訓練が行われており、兵士たちは地面の力に逆らいながら動きを調整していた。
「もっと重くしますか?」とアンナが肩越しに問うと、フーリェンは小さく首を振った。
「このまま。…動きを改善しよう。身体を振り回さず、芯を下げて保て。そうすれば、もっと楽に動ける」
「了解です、隊長!」
フーリェンはまた静かにその場を離れ、訓練場を横切るように歩いた。彼の足取りは確かで、背筋は伸びている。昨日までの不安は、すでにその身に沈められていた。
訓練場の喧騒の中、フーリェンの的確な指導に、兵士たちの声が波のように広がっていた。だが、そのざわめきの合間に、かすかなささやきがフーリェンの敏感な狐の耳を捉えていた。
「……あの隊長、どうなんだ?」
「ただ外から指示出してるだけだよな」
小さく、しかし確かに、彼の耳に入る不満の声。周囲の雑音に紛れていても、獣人としての感覚はそれを逃さない。フーリェンは無表情のまま、その声をただ静かに受け止めていた。その瞳は冷静で鋭く、しかし感情の波は表に出さない。
同じく耳の良い兎獣人のリンリィが、少し眉をひそめて兵士たちに声をかけようと体を向ける。
「ちょっと、――」
しかし、フーリェンはすっと静かに片手を伸ばし、リンリィの動きを制した。
「いい。構わないでくれ」
首をゆっくりと横に振り、続けて言う。
「士気が落ちる言葉は、無視しろ。今はそれでいい」
リンリィは一瞬迷いの色を浮かべたが、フーリェンの揺るぎない眼差しに押されてうなずき、兵士たちに向き直るのをやめた。そんなリンリィの目に映るフーリェンの姿は、言葉よりも強く、確かな威厳を放っていた。