第八章 残った者・入った者
【登場人物】
シュナ…猫獣人の青年。アスランとの合同訓練では、フーリェンとともに陽動部隊として動いた。
リンリィ…山猫とヒューマンのハーフの青年。シュナとは故郷が同じ。
リオン…新兵。ちょっとドジ
夕暮れが、訓練場の空気に柔らかな金色を落とし始めていた。長い一日がようやく終わりを迎え、新兵たちは先輩兵士の指導のもと、整列を崩し、兵舎へと戻っていく。どこか緊張の抜けた歩き方。安堵の中に、それぞれの小さな達成感が滲んでいた。その様子を、フーリェンは訓練場の隅から静かに見つめている。整列を解かれた新兵たちの背を目で追いながら、彼は小さく息を吐いた。
(……どうにか、初日は終わった)
まだ何もかもが未完成で、ぎこちない。それでも、少しずつ確かに前へ進んでいる気配が、今日の訓練場にはあった。
その時だった。足音が三つ、静かに近づいてくる。
「隊長。お疲れ様です」
やわらかな声に振り返ると、そこには三人の兵士の姿があった。
先頭に立つのはアンナ。端正な顔立ちと落ち着いた物腰を持ち、重力操作の能力をもつ、第四軍唯一の女兵士。その隣には、温和な面差しの青年、シュナ。野営戦で共に陽動部隊として動いたこともあり、索敵や撹乱に優れた柔軟な戦術眼を持つ彼の腕を、フーリェンは太鼓判を押している。そして、やや控えめに立つのはリンリィ。能力は持たないが、訓練で鍛えた足腰と正確な動作で、実直に任務をこなしてきた努力家である。
三人とも、今回の再編を経てもなお、第四軍に残ることになった者たちだった。
「本日の訓練、無事に終えられて何よりです。新兵の皆も、よくついてきていました」
アンナが静かに言葉を紡ぐ。
「少々硬さはありましたが……真面目な者が多い印象です。伸び代は十分かと」
シュナも続くように頷きながら、控えめに笑みを見せた。
「皆、隊長の言葉にすごく集中して耳を傾けていました。少し、緊張していたようですが……きっと、隊長のお気遣いも伝わっていたと思いますよ」
リンリィは、少し恥ずかしそうに、けれどしっかりとそう口にした。
フーリェンは三人の言葉を静かに聞き、少し目を伏せるようにして、呟いた。
「……お前たちが、残ってくれて助かった」
その言葉に、三人の間にわずかな驚きが走る。滅多に感情を口にしない隊長が、素直にそう言ったのだ。
「……まさか隊長から、そんなお言葉をいただけるとは」
シュナが、ほんの冗談めかして苦笑する。
「ですが、私たちはここに残ると決めたのです。隊長の下で、まだやるべきことがあると思っています」
アンナの声には、誠実な意志がこもっていた。
「……はい。隊長と共にいられること、心強く思っています」
リンリィの目は、静かながらしっかりと前を見据えていた。フーリェンはそれ以上多くは語らなかったが、その視線に微かに柔らかな光が宿っていた。
「……なら、僕がやるべきことも、変わらないな」
淡々とした口調。それは彼なりの、感謝の意だった。
そんなフーリェンの反応に、アンナが微笑み、リンリィも少しだけ口元を緩めた。
「……明日からが、本番ですね」
シュナの言葉に、全員が小さく頷く。
夕陽が地平線に落ちる頃。その光に照らされる四人の影が、訓練場の石畳の上に穏やかに重なった。
まだ始まったばかりの第四軍。だがその基盤には、確かな絆が、静かに根を張り始めていた。
⋆⋆
兵舎の一角。日が落ち、第四軍新兵たちの共同部屋には、湯気の立つ洗面桶の匂いと、乾いた制服の布ずれが混じっていた。一日の訓練を終えたばかりの若者たちは、疲れを抱えつつも、どこか晴れやかな顔をしていた。肩の力が抜け、緊張に縛られていた心がようやくゆるむ。
「……あー、足が棒だ……でも、生きて帰ってきたな」
黒髪の少年がマットに寝転がりながら、天井を仰ぐ。
「ほんとそれ。でもさ、こうして軍の制服着て、部屋割りされて……やっと本当に“始まった”って気がする」
「うん、今日だけで、もう夢じゃないって実感した」
窓際のベッドに腰かけていたリオンが、控えめに微笑む。まだ制服の袖をきちんと畳んでいる最中だった。
「俺、入隊試験のときに言われたんだ。ここは“戦いの基礎を教える軍”だって。なら、今日みたいな訓練は……悪くないって思う」
「俺、ウエディング祭の展示演武――あれを見て、ああなりたいと思ったんだ。…だから、第四軍に配属されて嬉しい」
「俺も…!すごかったよなあれ。息ピッタリの剣舞でさ。あの時の片方が、隊長なんだろ?」
部屋の中は静かな高揚感に包まれていた。
しかし、その空気を打ち消すように、少し離れた一角から、刺すような声が聞こえてくる。
「そうかねぇ……あの隊長、本当に大丈夫なのか?」
声の主は、金髪の若者――身のこなしに自信があり、訓練中も身体能力の高さを何度か見せていた男だ。
その周囲には、似たような空気を纏う数名の新兵が集まっていた。
「俺、第三軍かと思ってたんだよな。うちの村じゃ“力あるやつは盾兵に行く”って言われてたし」
「俺も。能力テストで『炎の派生型』って言われたのに、何でここなんだか」
彼らの声には、不満と困惑、そしてまだ若い自尊心が混ざっていた。
「でさ、うちの隊長って……フーリェン、だったか?」
「なんか……思ったより普通だったよな。いや、むしろ小さかったし」
「他の三軍の隊長、今日ちらっと見たけど、マジで迫力違ったぞ。第一軍の隊長とか、見た瞬間、空気変わってた」
「双子とはいえこっちはというと……訓練場の端から黙って見てるだけ。時々、ボソッと口挟むくらいじゃねぇか。正直……武に関しては、下手したら俺らの方が――」
その言葉の途中で、リオンが勢いよく立ち上がった。
「やめたほうがいいよ、そういうの」
急に声を上げたリオンに、周囲の数人が驚いたように視線を向ける。
「確かに、隊長は無表情だし、声もそこまで大きくはなかったけど……でも、今日、ちゃんと皆の動きをひとりひとり見てた。僕が転んだときだって、真っ先に気づいてくれてたんだ」
「だからって、強いとは限らないだろ」
金髪の男が鼻を鳴らす。
「俺は“隊長”って肩書きで納得したくないだけだ」
「隊長がどういう人かは、まだ俺たちには分からない。でも……最初から決めつけるのは、違うと思う」
そう続けたのは、リオンの隣で話を聞いていた別の新兵だった。
「お前、隊長に気に入られたいのか?」
「そんなつもりじゃ――!」
言葉が重なるが、不満を持つ側はすでに耳を貸す気配を見せず、何人かは布団に潜り込むかのように話を打ち切ってしまった。室内には、少し重たい沈黙が流れる。期待に胸を膨らませる者たちと、現実とのズレに苛立ちを募らせる者たち。新兵たちの間には、まだ見えない壁が確かに存在していた。
リオンは小さく唇を噛みながら、自分の布団に腰を下ろした。
彼の視線は、ふと小窓の外に向けられた。
そこにはもう、闇が落ちている。
だが、どこかで誰かが、その闇をじっと見つめ返しているような、そんな気がした。