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王宮の獣護  作者: 夜夢子
第8章
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第八章 将来

数日が経ち、再編成はおおかた完了していた。

かつては若手の声で賑わっていた訓練場も、今は嘘のように静まり返っている。


第一軍から第三軍にかけては、既に新たな編成での訓練が始まっていた。甲高い号令と剣戟の音が、遠くの空にかすかに響く。だが、第四軍はまだ動き出してはいない。新兵の導入は明日。今日だけは、完全な空白の一日だった。


その広すぎる静けさの中で、訓練場の隅。陽の当たらぬ木陰に身を縮めるようにして、フーリェンは膝を抱え座っていた。


肩にかかる白い髪が、風に揺れる。

静かに目を閉じると、かすかに響くかつての足音や声が幻のように脳裏をよぎった。耳に慣れた仲間たちの笑い声も、呼びかけも、もうここにはない。新しい始まりが目前に迫っているはずなのに、何もかもが、少しだけ遠かった。


「……おい」


低く太い声に、フーリェンは顔を上げた。

声の方に目を向けると、訓練場の柵の向こうから大きな影が現れた。茶褐色の毛並みを逆立てた、第三軍の猪獣人、ダズール。再編成で西の駐屯地に異動が決まり、今日が王都を発つ前日だと聞いていた。


「こんなとこで丸くなって……何やってんだよ、隊長さんよ」


ぶっきらぼうな口ぶりながら、どこか笑っている声。

フーリェンは少し目を細めて、黙って座り直した。返事はない。ダズールは柵を越えて中へ入り、フーリェンの隣にどっかりと腰を下ろした。重たい音と共に、硬い地面がわずかに揺れる。


「……まさか、あんなに細っこかった子狐が、今じゃ隊長だもんな」

「……」

「お前が馬鹿みてぇに敵の中央に突っ込んで、俺がその尻ぬぐいしてやったの、忘れてねぇぞ」

「……すまん」


ダズールは「気にすんな」と鼻を鳴らした。


「俺たち、実は同期だったよな」

「たしか、あの年の試験は雪の中だった」

「お前、試験だってのに、槍抱えて目しょぼつかせてたな」

「……眠かったんだ」


顔色一つ変えずに答えるフーリェンに、ダズールは思わず吹き出した。


「はははっ。それくらいの気持ちでいけよ」


と、そこでダズールは一拍置いて、少し真面目な声音になる。


「……無理はしすぎるなよ、フーリェン。お前、全部自分で背負い込むクセ、直ってねぇだろ」


言葉に詰まるように、フーリェンは唇をかすかに噛んだ。目を伏せたまま、黙って頷く。


「明日、新兵が来るんだろ? だったら今日くらい、弱音吐いたって誰も責めねぇよ。……俺も昔、お前に助けられたこと、忘れてねぇしな」


そう言って、ダズールはすっと立ち上がると、訓練場の出口へと向かった。その背に、フーリェンは小さく言葉を投げた。


「……ありがとう」


その声に、ダズールは片手を軽く挙げて応えるだけだった。


静かになった訓練場。

風の中で、フーリェンはそっと膝を下ろし、ひとつ深く息を吐いた。


ダズールの背が訓練場の門をくぐり、姿が見えなくなった頃。風に混じって、また別の足音が聞こえてきた。フーリェンは振り返らない。けれど、その気配に問いかけるように口を開いた。


「……訓練は、いいの」


足音は止まらず、むしろこちらへとまっすぐに向かってきている。やがてその問いに、どこか軽い調子の声が答えた。


「お前が心配で見に来たんだよ。ほら、やさぐれ白狐が一人で膝抱えてるって聞いたからさ」


ランシーだった。冗談めかした口ぶりの中に、ほんのわずかに滲む本気の気遣い。フーリェンは何も返さず、ただ目を閉じたまま息を吐く。その沈黙を破るように、ジンリェンとシュアンランも静かに歩み寄る。三人がフーリェンのそばに並び、ぽつぽつと語りはじめる。


「……ダズールとすれ違った」


シュアンランが言うと、ランシーも頷いた。


「西の駐屯地か。遠いな」

「今回の再編で、お前と同期だった兵士は、皆あちこちへ散ったな」


ジンリェンが静かに言う。その言葉に、フーリェンはようやく瞳を開け、ゆっくりと視線を落とした。


「……そうか」


ぽつりとこぼれたその声は、淡々としているのに、どこか痛々しくもあった。


「軍に属するっていうのは、そういうことだ」


優しい口調で、シュアンランが続ける。


「誰かが来て、誰かが去る。つながった絆も、任を解かれれば、それまで。けどそれは、忘れるって意味じゃない。残る者は、その想いを背負って進むだけ」

「第一軍の古参たちも、何人も引退した」

「……みんな、いずれはこの場所から離れていく。俺たちも、例外じゃない」


その言葉に、ふとランシーが小さく笑って、空を仰いだ。


「……俺たちも、20年後、30年後――どうしてるかな」


冗談とも本気ともつかない声。けれどそれは、今の瞬間をそっと抱きしめるような、優しい響きを持っていた。ランシーのその呟きに、しばし沈黙が落ちた。

秋の夕風が訓練場の上をなでるように通り抜け、落ち葉が一枚、砂の上を転がっていく。


その静けさの中で、ジンリェンがぽつりと口を開いた。


「お前は……ここを離れたら、何かやりたいことがあるのか?」


唐突な問いだった。だが、どこか真面目な響きがあった。ジンリェンの琥珀の瞳が、じっとランシーを見据える。すると、ランシーは一瞬目を見開き、次いでふっと笑った。だが、その笑みの奥には、思いがけず真剣な光が宿っていた。


「……実は、あるんだ」


その一言に、三人の視線が一斉に彼に集まった。

目を丸くするフーリェン。眉をわずかに上げるジンリェン。そして、無言のまま少し首を傾げるシュアンラン。


「意外だな」


と、フーリェンがぽつりと呟いた。


「まぁ、自分でもちょっと照れるんだけどな」


ランシーは、頭をかきながらも口調を崩さず続けた。


「退役したらさ……王都で小さな本屋をやりたいんだ」

「……本屋?」


シュアンランが思わず聞き返した。


「ああ。路地の奥にあるような、目立たない、でも落ち着く店。木の棚に、古い本と新刊が並んでて。昼間は陽が差して、夜はランプの明かりが揺れてるような……」


その語り口は、どこか夢を見る子どものように穏やかで、けれど揺るぎない芯があった。


「ユリウス様は、本がお好きなんだ。暇ができると、よく書庫で読書されてる。だから――俺は、しがない本屋の店主になってさ、ときどきユリウス様が“お忍び”で立ち寄ってくれるような、そんな店を作りたいんだ」


あまりに意外で、あまりに――静かにあたたかい、ランシーの未来の展望に、誰も言葉を返せなかった。


「お前らは?」


ランシーが問い返すように、三人を見た。


最初に応えたのは、シュアンランだった。空を仰いでいた視線を、そっと地面に落としながら、ゆっくりと語り出す。


「……そうだな。まだはっきりとは考えたことないけど……」


彼の脳裏に浮かんだのは、王都の一角にある小さな店――色とりどりの花が並ぶ、花屋の風景だった。

そこで穏やかな背中を見せていたのは、数年前に退役した父親の姿だ。


かつて憧れ、時に疎ましくもあった父の生き方。

だが、今になってようやく、その静けさに意味があると感じられる。


そして、その店先に一瞬――

自分の隣に、白い尾を揺らす影を想像してしまったことに気づき、シュアンランは少し目を伏せた。


(……悪くない、未来かもしれない)


だが、その想像の部分は口にはせず、言葉を選ぶように語る。


「……親父が、今は花屋をやってるんだ。もしかしたら、俺もその後を継ぐかもしれない」


それだけを静かに口にした。


「花屋か……」


ランシーが目を細めて笑い、フーリェンはわずかに目を伏せた。ジンリェンは、なぜか少し遠い目をしていた。


「じゃあ、ジンは?」


その問いに、ジンリェンはわずかに眉を寄せた。

一瞬、言葉を選びかけ、だが結局、ゆっくり首を横に振った。


「……想像が、できない」


ぽつりと落とされたその一言は、どこか硬質で、けれど虚ろでもあった。


「俺は、王宮に来て十二年、考えてみれば……任務以外で、王都を離れたことすらない」


「えっ、本当に?」とランシーが目を見開くが、ジンリェンはただ静かに頷いた。


「たぶん俺は……このまま、第一軍の老兵たちみたいに、ここに残るんだと思う。最後の瞬間まで、殿下の傍にいて、武を預かって……それで終わる」


そこに悲壮感はなかった。ただ、それが自分の道だと、すでに知っている者の静かな確信があった。

沈黙が落ちる。


そしてふと、ランシーがまた口を開いた。


「……それでも、さ。どこかでまた会えたら、いいよな」


その言葉に、誰も返さなかった。けれど、それはきっと、三人ともが思っていたことだった。風が吹いた。夕焼けが、訓練場の地面を、淡く紅く染めていった。


「……じゃあ、最後」


ランシーが笑みを浮かべながら、わずかに身を乗り出した。


「お前はどうなんだよ、フー。退役したら、何がしたい?」


ジンリェンとシュアンランも、自然と視線をフーリェンに向ける。だが、問いを受けた本人はすぐには答えなかった。木陰の中、フーリェンは沈黙のまま、ふと遠くを見つめるように視線を上げた。風が一筋、白い髪をなでるように通り過ぎる。しばらくの静寂ののち、彼はゆっくりと、ぽつぽつと語り出した。


「……昔。僕が、第四軍に入る前。……訓練兵だった頃」


急に始まった昔話に、「うん?」とランシーが首を傾げる。


「その頃の教官だった人がいて。名前は、ベルトラン。……ジンとシュアンは、知ってるでしょ」


「ああ」


ジンリェンが短く頷く。思い出すのは、幼かった自分たちに、誰よりも厳しく、そして誰よりも暖かかった一人の教官の姿だった。


「……あの人は、今……北の砦にいる。女王陛下と共に」


フーリェンの声は淡々としていたが、その奥には、確かな敬意が滲んでいた。


「砦の指揮官になって、もう何年も経つのに……まだ、前線に立ち続けてる。北の兵士たちと一緒に、凍土の風の中で、武器を持って」


言葉を選びながら語るその様子に、三人は黙って耳を傾けていた。


「……僕は、あの人と兵たちとの関係が……どこか、眩しく思って」


声が、少しだけ揺れた。


「僕が今ここにいて、隊長って呼ばれてるのは……正直、まだ実感がない。隊を率いるって、難しいなって、毎日思ってる」


その言葉には、虚勢でも卑下でもない、ただ正直な戸惑いと、ひたむきな葛藤が込められていた。


「でも……それでも、きっと――」


フーリェンは静かに手を握った。指先に力が入る。


「たとえ……今の地位を離れても、どんな形でも、僕は……ルカ様を守りたい」


その言葉は、まるで言い慣れない告白のように、ぎこちなく、そしてまっすぐだった。


「それが、僕の……未来、だと思う」


誰も、すぐに返事はしなかった。それは、彼が心の奥にしまっていた“本音”のように、慎重に、丁寧に紡がれた言葉だったから。


やがて、ランシーがそっと口元をほころばせた。


「……ああ、やっぱお前は、そういうやつだよな」


ジンリェンはただ目を閉じて、ゆっくりと一つ頷いた。シュアンランは、少しだけ目を伏せると、「想像がつく」と、穏やかに呟いた。


秋の空は、ゆるやかに茜色に染まりつつあった。

西日に照らされた訓練場の影が、四人の足元で静かに重なり合っていた。その影の形は、今この瞬間の絆を、確かに映していた。

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