第七章 警告
風呂あがりの熱を抜くように、シュアンランは裏庭の縁に腰を下ろしていた。
秋の風はしんと冷たく、湿った髪に触れるたび、うっすらと熱が引いていく。
兵舎裏のその場所は、兵たちの喧騒から離れ、静かだった。天幕の端を揺らす風の音と、遠くで聞こえる衛兵の足音が、どこか現実感を薄くさせてくる。
「風邪ひくぞ」
聞き慣れた声に顔を向けると、先ほどまで両手に書類を抱えていたジンリェンが、無表情を張りつけたまま近づいてきた。
「書類整理はもう終わったのか?」
そう訊ねると、ジンリェンは「……あぁ」とだけ返し、隣に腰を下ろした。
横並びになった肩が微かに触れる。
「……フーは?」
ジンリェンは短く息を吐いてから、目を細めて空を見上げた。
「自分の書類仕事が溜まってるって。……嫌々部屋に戻ったよ」
その言葉に、シュアンランも同じように視線を上げる。高く、澄んだ空。夕陽の陰から星がぽつぽつと滲んでいる。
――不意に。
「……どこまで、知った?」
ジンリェンの声が、耳元に落ちた。
さっきまでの他愛ない調子ではない。低く、沈んだ音。鋭くもない、だが刺すような“重みを孕んだ問いだった。
驚いて顔を向けると、ジンリェンはまだ空を見たまま、表情を動かしていなかった。
だけど、その目は笑っていない。光を映さない、深く、冷えた目をしていた。
「……一掃戦で封鎖された実験場の跡に、調査に行った。そこには……記録の残骸が少しと、敵の襲撃があって、資料をひとつ持ち逃げされた」
声がかすれる。だが、それ以上のことは言わなかった。
ほんの一瞬、ジンリェンが僅かに視線を横にずらす。その目は、ただ“確認”していた。
シュアンランの言葉、表情、吐く息の温度までをも。
どれほどの時間が流れたか分からなかった。
ただ、耳の奥で風が鳴り、星が瞬く音すら聞こえてきそうな沈黙だけが続いていた。
ジンリェンは何も言わない。問いも、否も、追及もなかった。
けれど、それは“優しさ”ではないと、シュアンランには分かった。
あまりに静かで、冷静な沈黙。それはむしろ、“明確な意図”を含んだ沈黙だった。
「これ以上、踏み込むな」
言葉にすれば、そういうことだ。問い返されなかったのは、信じられたからではなく――
“ここで線を引いた”ということ。
それが、あの目だった。奥に潜む、感情のない琥珀の瞳。
普段は誰にも見せない、護衛としての仮面ではない、“本来のジンリェン”の目。
(……こいつ、全部、気づいてるんじゃないか)
もしくは、気づいていた上で、自分の手で確かめようとしているのか。
思考が無意識にそこまで及んだ時、背中に冷たい汗が滲んだ。隣にいるのは、長年ともに戦場を駆け抜けた親友のはずだった。しかし今だけは、目に映るその姿が、まるで氷の刃のように遠く感じられる。
「……悪いな。変な空気にしちまった」
ジンリェンがふと立ち上がった。もう一度、何か言ってくるかと身構えたが、彼はただ背中越しに一言だけ残した。
「――シュアン。お前のそういうところ、昔から変わらないな」
それが、軽口なのか皮肉なのか、それとも――何か別の意味が込められていたのか。
結局、分からなかった。
ただ、確かに分かるのは。
あの目の奥には――もしものときには、自らの手で“何かを終わらせる”覚悟が、宿っていたということ。
風が強くなり、乾いた木の葉が舞い上がった。
それはまるで、何かが――決壊する前の、静かな前触れのように。
第七章 第七地区捜査編 完