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王宮の獣護  作者: 夜夢子
第7章
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第七章 記憶の扉

王宮内の報告を終えた後、シュアンランは深い吐息をひとつついた。

張り詰めていた意識がようやく緩み、体の奥から疲労がじわじわと滲み出してくる。調査続きでろくに眠れず、風呂に入ったのも数日前だった。


「……さすがに限界だな」


額にかかった髪をひと振り払い、ゆっくりと歩き出す。

荷物を取りに兵舎へ戻る途中――回廊の角を曲がったその先で、見慣れた白い耳と尻尾が揺れていた。


「あ、おかえり」


声を揃えてそう告げたのは、白狐の双子。

報告の間、書庫での整理を頼まれたのだろうか。二人とも、腕いっぱいに書物を抱えていた。


「……ああ。ただいま」


シュアンランは自然に微笑みながらも、その双子の姿に視線を滑らせる。

並んで立つと、よく似ている。白の髪、同じ輪郭の顔。だが――今、目の前に立つ二人は、どうしようもなく“違って”見えた。


地下で拾い上げた古びた記録。

“個体K”と“個体S”。

子供向けの童話に描かれていた、幻術を操る狐の妖術使いたち。

採血記録、融合性、同一種族の可能性――理性で理解しようとしても、感情がそれを拒む。


一瞬、表情が曇る。けれどそれを双子に気取られるわけにはいかず、すぐに顔を逸らした。


「どうしたの?」


不意に、柔らかな声が落ちてくる。

その声に視線を向けると、小首を傾げ、心配そうにこちらを覗き込むフーリェンのその表情は、相変わらず無防備で。


「いや、なんでも……」


言いかけたシュアンランの言葉が、ふと止まった。

ひくりと、フーリェンの狐耳が動いた。


「……ん?」


書物を片腕に預けると、フーリェンはすっと近寄ってくる。

鼻をひくつかせると、まるで何かを確かめるようにシュアンランの匂いを嗅ぎ取っていた。


「おい、待て、フー。近づくな、汗臭いぞ」


慌てて半歩引くシュアンランだったが、その手を逃がす前に、フーリェンの細い指が隊服の胸元を掴んだ。シュアンランが息を呑んだ瞬間、目の前の琥珀色の瞳がほんの僅かに色を変え、氷を思わせる冷たさを帯びて、真っすぐにシュアンランの目を見据える。


「どこの匂い、これ」


低く問う声が、いつもの彼とは違っていた。冷静で、静かで、それでいて確かな“殺気”を含んでいる。

胸元に置かれたその手の圧は弱いはずなのに、まるで心臓を掴まれているような錯覚に陥る。

一瞬、呼吸が止まった。


「……フー」


横にいたジンリェンが、眉をひそめる。気配の変化に即座に気づいたのだろう。だが、すぐには言葉を発しない。ただ、じっとそのやりとりを見つめていた。


「……第七地区の空気だ。……たぶん、それが移ったんだろ」


やっとのことで、シュアンランは答えた。自分の声が少し掠れているのに気づく。

しばらくの間、フーリェンは動かなかった。けれど――数秒後、すっと指が離れる。


「……そっか」


さっきまでとはまるで別人のように、あっさりと無表情に戻るフーリェン。

いつもの柔らかな雰囲気が戻り、彼は片手に抱えていた書物の山を抱え直す。


だがシュアンランの背には、冷たい汗が伝っていた。

フーリェンの“嗅覚”と、なによりあの時の“眼”が、ただの反応ではなかったことを、彼は確信していた。


――何かを、察していた。


その“何か”が何なのか。それを掘り下げるには、もう少しだけ覚悟が要る気がした。

胸の奥に残る重たいものを押し込めるように、シュアンランは小さく息を吐いた。






⋆⋆

あの瞬間――フーリェンが、シュアンランの胸元を掴んだとき。

その様子を見ていたジンリェンは、微かに呼吸を止めていた。


弟の仕草は、見慣れているはずだった。何気ない近づき。よくある悪戯めいた距離感。

だが――あれは、違った。


フーリェンの手。その指の角度、添え方、力の入り具合。

ほんの数秒だったが、それは獣が敵を捉えるための動作に、どこか似ていた。


そして、声。

いつもよりもわずかに低く、感情を押し殺すように沈んだ声色。


――どこの匂い、これ。


その問いに込められていたのは、純粋な疑問ではない。

あれは、何かに気づき、何かを掴みかけている者の口調だった。


ジンリェンは視線を伏せる。

ここ数年、弟の観察眼と嗅覚は研ぎ澄まされてきている。

かつて能力を抑える薬に頼り、感情を読み取ることすら苦手だった彼が、今では表情ひとつで、周囲の機微を読み取っている。


そして何より――感情を持ち込まず、冷静に「疑う」ことを覚え始めている。

そう思ったとき、胸の奥に微かな不安が灯る。弟の成長を喜ぶ気持ちと、それとは別に蠢く別の感情――


「……そっか」


フーリェンがそっとシュアンランの胸元から手を離す。いつもの調子。いつもの声。

だが、その目の奥に残っていた、あの一瞬の“冷気”を、ジンリェンは忘れなかった。


「……風呂、行ってこいよ」


あえて平静を装いながら、ジンリェンはそう告げた。

隣のフーリェンも「引き留めてごめん」と、書類の山を持ち直してシュアンランを見送る。


ジンリェンは隣の弟の姿をじっと見つめる。自分と同じ、透き通るような白の髪がゆるく揺れるたびに、何かがこぼれ落ちそうな気がして――彼は知らず、拳をゆっくりと握りしめていた。


(お前が、”記憶”を思い出したら、俺は……)


その先の言葉は、形にならなかった。








⋆⋆

ジンリェンの声に頷きながら、フーリェンは書物の束を拾い直す。

その手は冷静に動いていたが、心の奥には、波紋のようなざわめきがまだ残っていた。


(――あの匂い)


忘れようとしても、鼻腔の奥に残っている。古い鉄の匂い。火薬と、薬品。

そこに混じる、別の何か――


「“知っている”気がした」


小さく、誰にも聞こえない声で呟く。


そう、あの瞬間。シュアンランの胸元から漂った匂いを嗅いだとき、彼の脳裏に浮かんだのは――“知らないはずの場所”だった。


暗い、石の壁。じめじめとした空気と、遠くに響く金属音。

自分よりも大きな影が、自分の前にしゃがみこむ気配。

何かを差し出され、それを夢中で貪り喰らう、自分。


記憶なのか、幻覚なのか、それともただの疲労か。思考の奥が白く霞む。


「……フー?」


隣で書物を整えていた兄が、ふと視線を寄越す。フーリェンは慌てて笑って見せた。


「なんでもない」

「……お前、最近敏感すぎるぞ」


そう言ってジンリェンは、兄らしい手つきでフーリェンの頭をくしゃりと撫でた。



温かくて、安心するその手の感触に、フーリェンは目を伏せた。

けれど――心のどこかが、ざわざわと警鐘を鳴らし続けている。


まるで、“何かを忘れてはいけない”と訴えるように。


(……思い出さなきゃいけない気がする)


けれど、“思い出してはいけない気もする”。


その二つが、心の奥でせめぎあう。


立ち込める霧の中に、微かに見えたあの石壁の影。焼けただれた腕。

叫び声と、自分が喰らったのかもしれない“何か”。


――あれは、何だったのだろう。


その答えはまだ掴めない。

だが、確かにその扉は、音もなく開きかけていた。


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