第七章 混ざりもの
「双子に……知らせるわけにはいかない」
そう呟いたセオドアの言葉が空気に溶けきる前に――
実験場の天井を支える鉄骨の隙間で、かすかに何かが揺れた。
「……っ」
いち早く反応したのは、シュアンランだった。彼の耳がわずかに動き、即座に身体を翻すと、即座にセオドアの前へと立つ。同時に、アドルフが小声で呟いた。
「囲まれてる……!」
その言葉と同時に、空間にひしりと緊張が走る。
薄暗い実験場の通路――そこに、音もなく姿を現したのは、フードを深く被った数人の獣人たちだった。
毛並みも種もまばらなその影たちは、全員が無言のまま、視線をセオドアたちへ向けている。
「構えろ」
シュアンランの短い号令と共に、一斉に戦闘態勢に入る一行。
敵の気配は五。ただし、その動きには素人にはない、軍や傭兵に近い訓練の片鱗があった。
「セオドア様、お下がりください…!」
シュアンランが一歩前に出ると、能力で作った氷の剣を手に、切りかかる。
ユエとアドルフはセオドアを囲うように陣を敷き、敵の包囲を崩す機を伺っていた――
が、その瞬間、一人の敵が跳躍し、セオドアに向かって一直線に刃を振るう。
「っ……!」
シュアンランが踏み込もうとする、その瞬間――セオドアの動きは、目に映らないほど素早かった。
獣人の動きを見切り、横合いから腰の短剣を抜くと、ほぼ同時に敵の懐へと踏み込む。
――ザクリ、と乾いた音が響き、敵の身体が崩れ落ちた。
その鮮やかすぎる一撃に、一瞬、場が静止する。
「……だから言ったろう、足手まといにはならないと」
息も乱さず、血の飛沫を払うセオドアに、シュアンランが舌打ち気味に低く呟く。
「……だからって、やたらに突っ込まないでください…!」
だが安堵も束の間――
「逃げた!」
ユエの声が響いた。一人のフードの獣人が、棚の下から拾い上げた一束の資料を抱えて、実験場の奥の裂けた壁から素早く離脱していく。
「アドルフ! ユエ! 追え!」
即座に命令を飛ばすシュアンラン。二人は頷くと、残された敵の動きを縫うようにして抜け、追撃へと走る。
再び空気が鋭く切り裂かれる。シュアンランは振り返ることなく、手にしていた剣を溶かし、新たに短刀を精製する。それを逆手に構え、残る敵と正面から対峙した。じりじりと間合いを詰めてくる一人の獣人を見据えながら、シュアンランは心を静める。
この地で手に入れた情報を、奪わせるわけにはいかない。
それは護衛としての誇りでも、一兵士としての義務でもない。
――あの双子を、これ以上踏みにじらせないために。
「っ――!」
残る敵の一人が突撃してきた瞬間、シュアンランの短刀が閃いた。
一人は即座に斃れ、もう一人も壁に叩きつけて気絶させる。
そして――最後の一人に対しては、渾身の蹴りで動きを封じ、力加減を保ったまま、腕関節を決めて床に押さえ込む。
「動けば殺す」
呻く敵の体からは、獣人特有の硫黄混じりの汗の匂いが立ち上る。シュアンランの額にも一筋の汗が浮かんでいた。
「……一人捕獲」
短く告げ、立ち上がる。手応えのある情報源――逃がした文書の補填としては、上々の収穫だ。
シュアンランは、地面にうずくまる男の肩をがっちりと押さえつけたまま、鋭い視線を向けていた。
敵の息遣いは荒く、片腕は完全に折れたままだ。それでもその眼には、どこか余裕の色が残っている。
「名前は。所属と指令元を言え」
押し殺したような声でシュアンランが問う。だが男は、にやりと笑っただけで答えない。
そして視線をずらし――後方に控えるセオドアをまっすぐに見据えた。
「……混ざりものの王族が、こんな鉄臭い場所まで足を運ぶとはな」
ぞっとするような冷笑だった。その言葉に、セオドアの眉がわずかに動く。
一歩、男へと近づき、正面に立つ。
「混ざりもの――?」
低く、静かな声だった。シュアンランが少しだけ目を細め、男を睨む。
セオドアはそのまま、ほんのわずかに首を傾けて、言葉を重ねた。
「なぜお前が、それを知っている?」
……一瞬の沈黙。
風が、崩れかけた施設の壁を抜けて吹いた。湿った埃が舞い、錆びた金属の匂いが鼻を刺す。
男は答えなかった。ただ、唇の端をつり上げ、笑った。
「せいぜい王宮の中で、探り合うといい」
その直後だった。舌の奥で“カチリ”と、小さな音が鳴った。
「――!」
シュアンランが動いたときにはもう、男の目は虚ろになり、膝から崩れ落ちていた。
口元から泡が溢れ、指先が微かに痙攣する。
「……毒か」
セオドアの呟きに、シュアンランは無言で頷いた。
すでに、脈は取れない。
湿った空気の中、死体の体温が徐々に地へと染みていく。
静寂だけが、再び実験場を包み込んでいた。
セオドアは目を伏せたまま、低く息を吐いた。
「……行くぞ。アドルフとユエと合流する」
そしてその目に浮かぶのは、自身の母の姿――王の側室でありながら、深い秘密と共に生きた女の影だった。
「……もうすぐだ。全て、明るみに出る」
彼の言葉は誰に向けられたものでもなく、ただ空気へと溶けていった。