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王宮の獣護  作者: 夜夢子
第7章
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第七章 実験場

張りつめた空気を誰からともなく吐いた息がほぐすと、一行は思考の森から抜けるように、そっと話題を切り替えた。


「……ユエ、例の場所に案内してくれ」


セオドアの指示に、ユエはすぐさま頷いた。

彼らが目星をつけていたのは、地下の北東――古い図面によれば、かつて“管理棟第二分区”と呼ばれていた一角だ。戦時中に多数の記録と施設が集中していた区域で、現在はほぼ封鎖状態にある。

厚い湿気を纏った通路を抜け、一行は無言のまま移動を続ける。地下は、十二年前の“第七隔離区域一掃戦”の爪痕を未だ生々しく残していた。崩れた壁、焼け焦げた扉、剥き出しの配管。そのあちこちに、人の手が加わった形跡もある。


「……浮浪者が手を入れたな」


アドルフが、簡素な補修材の貼られた壁を指してつぶやいた。

木板で補強された小部屋、布を繋ぎ合わせた簡易幕屋、生活の気配が残る焚き火跡。ここはもはや“廃墟”というより、“別の生活圏”になりかけていた。


「上からは完全に死んだ区域と報告されていたが……」


セオドアが呟く声には、怒りも哀れみもなかった。ただ、淡々と観察する目で、その光景を見つめる。


やがて辿り着いたのは、鉄製の格子扉で封鎖された区画。

ユエが手にした地図と壁の標記が一致したことを確認し、アドルフが扉を蹴破る。錆びついた金属の悲鳴とともに、奥へと続く空間が姿を現す。そこは、時が止まったような部屋だった。


天井は半ば崩れ落ち、裂けた壁から差し込む僅かな光に照らされる内部は、苔と蔦に覆われていた。かつての研究器具や作業机はそのままに朽ち、床のあちこちに、紙片や破れたファイルが散乱している。

その空間は、風のない地下にもかかわらず、鼻腔を刺す鉄の匂いが立ち込めていた。血のような、あるいは薬品のような――それを曖昧に混ぜたような、鈍く濁った臭い。


「封鎖されたままの状態だな。……回収されず、報告にも上がらなかった実験場、というところか」


セオドアの言葉に誰も返さないまま、各自が散らばった資料を拾い集め始めた。

紙の隙間に苔が根を伸ばし、文字の消えかけた帳面がゆっくりと崩れていく。だが、それでも――残された何かがある。そう感じさせる、奇妙な重みがその空間にはあった。


足音と、紙の擦れる音だけが、黙々と響く。

ここは、まだ“記憶”を留めている。

そして――その記憶は、確実に誰かへと繋がっている気配がした。










⋆⋆

拾い集めた資料の中には、破れた日誌や記録用紙、薬品成分表、そして用途不明の図面などが混ざっていた。アドルフが手袋越しに一枚の書類をめくるたび、湿気に浸された紙が、ぼろぼろと音を立てて崩れ落ちる。


「……これ、見てください」


ユエが一冊の綴じられたファイルを持ち上げた。表紙には文字はなかったが、中身は比較的きれいに保たれており、数ページに渡って整った筆跡が残っている。


「“外部提供個体に関する観察記録”……?」


シュアンランが眉を寄せて覗きこむ。


「どうやら、他所から移送された被験体の記録のようです。年齢区分:不詳、または申告情報に基づく仮判定……」


ユエは読み上げながら手を止めた。そこに記されていた名前に、彼の眉がわずかに動いた。


「個体識別名……“K”」


「K?」


セオドアが歩み寄り、ファイルを覗き込む。ユエはさらに数ページを捲った。


「後半には、別の名義が出ています。……カイ、という名が、署名欄に。」


その名に、空気が変わった。


「……カイ、か」


シュアンランが低く呟いた。その声音には、淡い驚きと同時に、どこか硬質な警戒が滲んでいた。

その名は、既に知っていた。前回、セオドアと共に一度目の調査にあたった際――集まっていた浮浪者たちが呟いていた名前。さらに調査を進めるうち、彼が十二年前に“オルカ”へと亡命したことが判明していた。その記憶を手繰り寄せながら、シュアンランはもう一つの記憶を思い出す。


「……ジンから、昔一度だけ聞いたことがある」


シュアンランは、ゆっくりと言葉を選びながら続けた。


「その男のことを、ジンは――殺してやりたいほど憎んでいました……心底、恨んでいた」


その言葉に、一行の空気がわずかに揺らいだ。


「……ジンが?」

「珍しいでしょう。あいつは、滅多に誰かを憎むようなことは言わない。たとえ敵兵でも、感情を持ち込まないやつだ。それでも――“カイ”という名だけは、口にしたときの声音が違っていた」

「なぜそこまで?」

「理由までは……。……ですが、それがジンにとって“過去を断ち切れない何か”だったことは間違いないと思います。フーの記憶にあの名がないのは、意図的に封じているのか、あるいは……」


シュアンランは言葉を濁した。

名は記録に残り、憎しみは記憶に刻まれ、姿は歴史の裏に消えた――

「カイ」という存在が、確かに“この一件”の核心へとつながっていると、誰の胸にも疑いなく染み込んだ瞬間だった。



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