第七章 第七隔離区域調査
薄暗い書斎に、重厚な木製の机を前にした男が座っていた。彼の体格は恰幅よく、長年の経験が刻み込まれた深い皺がその顔に陰影を落としている。冷ややかな眼差しは、何事も見透かすように鋭く光っていた。部屋の隅に控える侍従が静かに報告書を差し出すと、男はゆっくりと手を伸ばした。
「西の新薬の一部を奪取。送り込んだ密偵たちは、全員が狐獣人によって葬られた、か」
報告を読み進めながら、男の口元に薄く、しかし冷徹な笑みが浮かぶ。
「……コンか」
その名前は、長く忘れていた過去の影を呼び覚ます。奴隷時代の呼び名、だが男にとっては決して消し去ることのできない記憶の符号だった。続けて、男は別の報告書に視線を移した。フェルディナとアスランの合同訓練の詳細が淡々と記されている中、指揮官の名前に目を留める。
「ジンリェン……シロも、まだ生きていたか」
その呟きには、複雑な感情が滲む。恨みと執着、そしてかつて手に入れられなかったものへの渇望。あの双子の兄弟は、男にとって単なる対象ではない。彼の人生のすべてを賭けた“検体”であり、失われてはならないものだった。男はさらに報告書の脇に添えられた二枚の写真を手に取った。炎を纏った白狐と、冷たい眼差しの白狐の姿が写っている。指先がふと、片方の青年の写真へと滑り落ちる。
「ずいぶんと、”似せた”なぁ」
その言葉はまるで呪文のように、静かな書斎に響いた。男の瞳は揺るがず、ただ一心に過去と向き合っている。ゆっくりと立ち上がり、男は背を向ける。厚手の外套の裾が床をかすめる音だけが、静寂を破る。
「必ず、我が半生をかけたその“検体”を取り戻す……」
低く唸るように紡がれた言葉は、書斎の壁にこだまして消えていく。男の背中には、過去と未来を見据える覚悟が強く刻まれていた。
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場面は変わり、第七地区
十二年前の「隔離区域一掃戦」で地図から消された、王都の外れにある地下遺構の一角。ひび割れた石造りの通路を抜けた先、幾つかの支柱で補強された地下空間が、今は仮設の基地として姿を変えていた。
火の光がわずかに揺れる中、簡素な机を囲んで3人の兵士と王子が集まり、地図と記録資料を前に話し合いが進められている。
「今日はこの第一区画を中心に、文書と残留痕跡の調査に専念する。それと……」
セオドアの視線が机の上の報告書に滑る。
「フーリェンの能力について、漏洩経路の特定も急務だ。王宮内部からの情報流出の可能性も考慮すべきだろう」
その言葉に、一瞬場が静まった。
「――ですが、殿下」
重々しい声で言葉を挟んだのは、シュアンランだった。仮面のように無表情ではあるものの、眉間にはかすかな皺が刻まれている。
「本当に、同行なさるんですか?…俺たちだけでも、調査はできます」
「足手まといになるつもりはない、シュアン」
セオドアの声は静かだったが、その瞳には微かな光が宿っていた。怒りでも、軽んじる気配でもなく、ただ真っすぐに向けられる意志。
「俺は王族である前に、この国の一員であり、今回の調査には個人的な責任もある。だから、引くつもりはない」
シュアンランは何も返せなかった。確かにその通りなのだ。口では理解している。だが、地下の湿った空気や、積もる埃の匂い、戦で亡くなった者たちの気配が未だ漂うこの地に、王族を歩かせるということ……。その事実が、シュアンランの中に葛藤を生んでいた。
そんな沈黙を打ち破るように、脇に控えていたアドルフが呆れたように肩をすくめた。
「……そう言っても、もう来ちゃってるんですから。殿下を地上に放り返すわけにもいかないでしょう。だったら、せめて活用するのが筋ってもんです」
「言い方ってものがあるだろう」
「でも事実ですし」
やれやれ、と肩を竦めるアドルフに、シュアンランは目を細めながら小さくため息を吐いた。もとより王族に従う身。たとえ心が納得していなくとも、命があれば従うしかない。
「……分かりました。ならばせめて、動く際は必ず俺たちのそばに。これは譲れません」
「もちろん」
セオドアは穏やかに頷いた。その横顔には、迷いも誇示もなく、ただ確かな決意だけが滲んでいる。
シュアンランは眉をわずかにひそめながらも、黙って頷いた。内心の懸念は拭い切れないままだが、それでも、主が行くと決めたならそれに従う。
セオドアは小さく息をつき、机の地図に指を滑らせた。
「それじゃあ、次はこの南側の区画だ。前回の掃討記録では、地下書庫の残骸があると報告されている。そこに残っているはずの、王宮関係者の記録を洗い出そう」
闇に包まれた地下の奥で、かつて封印された王国の記憶が、静かにその幕を開こうとしていた。