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王宮の獣護  作者: 夜夢子
間章
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間章 あなたがくれた、世界の輪郭

ルカへの報告を終え、王宮の長い廊下を一人歩く。無言の足音が石床に吸い込まれていく。やがて扉を押し開け、自室に戻る。その瞬間、溜息がひとつ漏れた。机の上には、またしても積み重なった文書の山。数日空けただけで、どうしてこうも溜まるのかと、内心で毒づく。


「……帰りたくなくなる理由、こういうところなんだよな」


誰にともなく呟きながら、外套を脱ぎ椅子の背に掛ける。隊服はまだ取り換えていない。裂けた背からは包帯が覗き、白布の間に滲んだ赤が乾いて残っていた。

そのまま椅子に腰かけ、重たく目を閉じようとした時、不意に視界の端に見慣れぬものが映った。


書類の山のすぐ横。そこに、小さな花瓶がひとつ。静かに、まるでずっとそこにあったかのように置かれていた。


中には――白い花が、一輪。まるで雪を紡いだかのような、透き通る白。それは、リェンの花だった。


「……誰が……?」


ぽつりと、思わず声が零れる。触れれば壊れそうなほど繊細な花弁に、そっと指を伸ばす。その感触が、記憶を呼び覚ました。


それは、まだ名を持たぬ子狐だった頃、初めて得た“自由の象徴”。

 

思い浮かべるのは、十年以上も前のことだった。









―――――

あの頃の世界は、いつも薄暗く、息が詰まるほどに冷たかった。檻の外に広がっていたのは鉄格子と石の壁、遠くに響く泣き声と怒鳴り声、そして時折鼻先を撫でる血と薬の匂い。毎日が、自分の能力との戦いだった。


それが突然、崩れた。あの日――檻の向こうから聞こえてきた、聞き慣れぬ怒号と、重い足音。何かが割れる音。誰かが叫ぶ声。そして――火の匂い。訳もわからぬまま扉は破壊され、人の群れがなだれ込んできた。騒然とする中で、恐怖が体を突き上げ、気づけば自分は、力を制御できずに能力を暴走させていた。


「コン! こっちだ!」


手を引いてくれたのは、兄だった。いつも自分を守ってくれた、あの兄の手の温かさだけが、唯一信じられるものだった。瓦礫の隙間に身を潜め、肩を抱かれながら耳を塞いだ。遠ざかっていく怒号。鼻を刺す煙。視界が歪み、恐怖と混乱の中で意識が遠のいていく。


――次に目を覚ましたとき、そこには鉄の床も、暗がりもなかった。


代わりにあったのは、柔らかな布団。知らない天井。窓から差し込む、やわらかな光。だが、隣にいたはずの兄の姿はそこになく、代わりに駆け寄ってきたのは、見知らぬ大人の女だった。顔が見えた瞬間、全身が強張る。怖い。怖い。知らない。知らない。混乱した心が、自分の体を別の姿に変えてしまう。


部屋の空気が変わり、慌てた声が飛び交う。その混沌の中で、ただ一人――あの声が聞こえた。


「コン…!僕だよ」


慌てる大人の隙間を縫うようにして急いで現れた兄。どんな姿になっていようと、迷わず自分を抱きしめてくれた兄の体温に触れた瞬間、崩れるように力が抜けて――また意識を手放した。


それからしばらくの間、そんな日々が続いた。目を覚ませば知らない場所。知らない人の声。変化してしまうたびに騒がれ、怖くてまた眠って、気がつけば兄がそばにいて。


その繰り返し。何度も、何度も。


そんな日々を、どれくらい繰り返しただろうか。朝が来て、薬を飲んで、夜が来て、また眠る。それが当たり前になっていく中で、気づけば“よくわからない薬”が毎日の習慣になっていた。無味でも、苦味でも、構わなかった。薬を飲めば、少しだけ眠れるようになったから。変化も、暴走も、起きにくくなる気がしたから。


でも――あの日だけは違った。


その日は、不思議と白狐の姿のままで、落ち着いていられた。いつもならふとした拍子に形を崩してしまうのに、その日に限っては、体の輪郭が自然と保たれていた。隣には兄がいた。兄の腕に包まれたまま、静かな陽の差す部屋で目を覚ましたあの日。


そのときだった。部屋の外がざわつきはじめ、大人たちの足音が近づいてくる。出入り口の向こうから、焦ったような声が飛び交い、見張りの兵士たちが誰かを止めようとしていた。


「殿下、それ以上は……!」


その言葉に、兄の腕がぴくりと強ばった。


ドアの隙間から姿を現したのは、自分達より幾分か年上の、少年だった。柔らかく整えられた金髪。陽光のように淡く輝く、銅色の瞳。


兄の腕が、自分の肩をさらに強く抱き寄せる。そのとき不思議と、直感のように思った。この人を、傷つけてはいけない。まだ何者かもわからないその少年は、大人たちの制止も気に留めず、まっすぐにこちらへ近づいてきた。白狐の耳が揺れるほど静かな足音で、けれど確かな意志を携えて。


怖くはなかった。けれど、戸惑っていた。どうして自分のところに来るのかも、何を話すのかもわからない。でも――その目に浮かんでいた光だけは、ずっと胸に残っている。


あれは、哀しみだったのか、優しさだったのか。


あのとき、彼の存在が後の自分の世界に与えるものを、幼い自分はまだ知らなかった。けれど確かに、その日を境に、世界はほんの少しだけ変わっていったのだった。


「やっと、話ができるね」


その人はそう言った。まるで、長いあいだ待ち望んでいたかのように。けれど、幼い自分にはその意味が分からなかった。ただ、小首をかしげて、隣の兄を見ることしかできなかった。兄は少しだけ、目を細めて微笑んだ。


「この人は……大丈夫だよ。怖くない」


そう、優しく言った。兄がそう言うのなら、きっとそうなのだろう。狐の耳をぴんと立てたまま、そっと顔を上げた。目の前にいる金髪の少年――“殿下”と呼ばれたその人は、安心したように微笑んでから、ゆっくりと膝をついた。


「私の名前はルカ。ルカ・フェルディナ。この国の……第四王子だ」

「君たちの、名前を教えてくれるかい?」


柔らかく、包むような声だった。言葉の意味はすべては分からなかったけれど、それでも、その声音だけは忘れられない。ああ、この人は、きっととても“えらい人”なのだ――そう思った。


けれど、兄は静かに首を横に振った。


「……僕たちに、名前はありません」

「あるのは、ただ適当に呼ばれていた、…呼び合っていた、仮の名だけです」


ルカという名の少年は、少しだけ目を伏せて黙った。そのまま短い沈黙が流れた後、顔を上げると、どこか嬉しそうに微笑んだ。


「じゃあ……私が、名前をつけてもいい?」


兄も、自分も、何も答えなかった。肯定とも否定ともとれない静かな沈黙を、ルカはまるで気にした様子もなく、言葉を続けた。


「君たちは、とてもきれいな髪と、瞳を持っているね」

「まるで……雪のように白くて、澄んだ光みたいだ」


そして――

まっすぐにこちらを見つめながら、慈愛に満ちたその顔で、そっと言葉を告げた。


「君は……ジンリェン」

「そして、君は……フーリェンだ」


きらめくような声だった。それが、自分たちが初めて“名前”というものを持った日だった。


意味も、綴りも、その時は分からなかった。でも、その音の響きだけは、胸の奥に確かに届いた。


リェンの花――

白く、静かに咲く、寒さにも負けない花の名前。


そうして、この世に初めて、ジンリェンとフーリェンという白狐が生まれた。誰かに与えられた、最初の“自分”という輪郭。


それは、花の名を冠した、双子の狐の誕生日。

――――――――








白い光の中で差し出されたてのひらと、あの声の温もり。今でも思い出すたびに、胸の奥がふっと熱くなる。だが同時に、それは全てが幸せだったわけではない。名を得たあとも、長い時間、恐怖と混乱の中でもがいた日々があった。逃げるように変化し、兄の腕の中で震えていた夜も、薬の副作用で吐き戻した朝も。


それでも――


フーリェンは、白い花にそっと視線を戻す。


静かに、しかし確かに咲くその一輪を見つめながら、ふっと目を細めた。


(それでも、あれは……“幸せ”な記憶だ)


今もこうして、名を呼ばれ、任を与えられ、生きている。兄と共に歩んできた日々。ルカのもとで得た平穏。あの時の白い花のように、どこか冷たく、けれど清らかな――


「……ふたりとも、あのとき、ルカ様に出会えて良かったね」


誰にともなく呟いた声は、執務室の静けさに溶けていく。


窓の外では、夕陽が落ち始めていた。空の色が僅かに朱に染まり、リェンの花びらの端に影を落としている。


そっと、椅子の背にかけていた外套を羽織る。破れた隊服の下で、包帯がわずかにずれる。静かに立ち上がったフーリェンは、リェンの花の隣に置かれた未処理の書類を手に取りながら、再び日常へと歩み出していく。


一輪だけ生けられたその花は、何も語らず、ただそこに在った。




今の彼のように、静かに、しかし確かに根を張って――。

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