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王宮の獣護  作者: 夜夢子
第6章
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第六章 試薬

朝霧が晴れ、陽が地平から昇りきる頃。交易場の一角に、医務官たちが前日と同じ場所にテントと長机を設営し、準備は整っていた。


「お待たせしました」


リリスが姿を現すと、ユキは立ち上がって軽く会釈を返した。


「いえ、こちらこそご準備ありがとうございます。さっそく拝見しても?」

「もちろんです。こちらが、今回お持ちした品々になります」


木製の仕切りが入った箱の蓋を開け、リリスが丁寧に薬品を並べ始める。その動作をユキが食い入るように見つめ、時折メモを取っていく。


フーリェンは一歩下がった位置から、それを静かに見守っていた。白狐の耳がわずかに揺れ、鋭敏な嗅覚と聴覚でまわりの気配を測る。

 

「こちらは、回復能力を持つ獣人の血清から抽出した抗炎症薬です」


彼女は一本の瓶を取り上げて続ける。


「急性炎症への反応が早く、投与後数分で効果が現れます。ただし、対象との適合率があるため、量産化はまだ困難で……」

「なるほど。適合試験を行うとなると、個体別の体質データが必要になりますね」

「はい、まさにそこが課題でして」


やりとりは専門的でありながらも、両国の研究者同士の信頼が感じられた。ユキは小さく頷くと、自国側の木箱を開き始めた。


「こちらは、フェルディナ側からの提出データになります」

「定期健診で得られた獣人たちの身体反応や薬剤適応の平均値を統計化したもので、名前や個々の能力などの機密部分は伏せてありますが、薬学的には十分に参考になるはずです」


リリスは、資料の束を手に取って目を通し始めた。ページをめくるたびに、その顔が少しずつ驚きと、敬意の表情に変わる。


「これは……素晴らしい。これだけの精度でデータが整理されているとは」

「医務局の誇りです。少しでも、互いの研究が進めばと」


ユキが軽やかに微笑んだ。そのやり取りの間も、フーリェンは静かに周囲に意識を巡らせていた。薬と情報。それは、どちらも「力」になる。敵にも、味方にもなりうるものだ。交易という名の協力関係。その奥に潜む、わずかな緊張――

 

「……それと、昨日お話した“賊によって駄目になった試薬”の件ですが」


リリスが、少しだけ声を落とした。周囲には護衛の兵士が控えているが、距離を取っているため、会話に聞き耳を立てる者はいない。それでも彼女は、念のためにと視線を一度周囲へ滑らせた。


「失ったのは、筋肉の増強剤でした」


ユキの手が、帳面の記録の上で一瞬止まった。


「……筋肉の、ですか?」


「はい。正式には“機能促進型筋線維再生刺激薬”。肉体の負荷回復と筋力の短期的増幅を目的とした薬です。用途としては訓練時のサポートが主で、投薬後の筋損傷を抑えたり、持久力を一時的に向上させるものです」

「軍事運用も視野に入る内容ですね」

「ええ。そこが問題でもあります」


リリスは小さく息を吐く。


「本来ならば民間医療からの応用――筋萎縮やリハビリに使える可能性を想定していたのですが、どうしても“戦場向け”の方向で利用されやすいのが現実です。今回も、リヴェラ国内の一部で研究の継続に慎重な声が上がっていたところでした」

「そして、襲撃。……襲われたのが“偶然その薬を載せていた隊”だったのか、あるいは“薬を狙ったもの”だったのか――ですね」


リリスは目を伏せてうなずいた。


「……その判断がつかないからこそ、こうして慎重にお話させていただいています。今後の交易でも、この薬の取り扱いについては、より慎重な検討を要するかと」


ユキは帳面に小さく印をつけたあと、柔らかな声で応じた。


「分かりました。後日、こちらでも検討の場を設けます。ただ……この話を聞いた以上、私たちの側も、この薬についての出入りには目を光らせざるを得ません」

「当然です。ご理解いただけて、感謝します」


二人の言葉の応酬の裏では、互いの国がいかに“薬”という武器に対して用心深いかが滲んでいた。フーリェンは、そんな彼女たちの会話を静かに聞きながら、思考を巡らせていた。

 

“筋肉増強剤”――それが、たまたま失われたのではないとしたら?


何者かが、その研究自体を狙っている可能性。あるいは、それを横流ししようとしている者がいるのか―仮説はいくつも浮かび、だが確証はどこにもない。フーリェンの白狐の耳が、わずかに揺れた。静かな取引の場に、再び見えない緊張の糸が張り詰めていた。


「……それと、こちらを」


そう言って、リリスが包み布を一枚そっと広げる。その中には、破損した薬瓶のかけらが、慎重に包まれていた。透明なガラスの破片は、太陽光を受けて鈍く光っている。中心には、口の縁がわずかに残った首部と、淡く乾いた液体の跡。漏れ出た薬液が乾ききったあとにも、わずかな香りが残っていた。


「襲撃の際、試薬はこのように……。運搬箱ごと割られてしまって。これしか残りませんでした」


リリスは、悔しさと疲労をにじませていた。ユキはそっと目を細めると、指先だけで包み布の端を持ち上げる。僅かに残る薬の香りがふわりと鼻先を掠めた。乾いた薬草と、刺激的な成分が微かに混じる匂い。


「……確かに、筋繊維刺激系の匂いですね。量が少ないのに、これだけ香るのは、薬効が強い証拠……」

「はい。この試薬は少量でも即効性があり、訓練兵にはごく少量ずつ投与する予定でした」


ユキの隣では、フーリェンがそのガラス瓶の破片に目を細めていた。瓶の割れ方は、自然な事故にも見えた。だが――


(叩き割られた、というより“狙われた”ように割れている)


「ありがとうございます。痕跡があるだけでも、こちらとしては助かります」


ユキはそう言って、布ごと慎重に両手で包み込みながら受け取った。


取引の一部始終を見ていたフーリェンは、小さく一息つく。取り敢えず、特に不審な点もなく交易は終わりそうである。だがしかし――


彼の視線は再びユキの手もとに移った。


この小さな瓶の破片から、何かの始まりの匂いがする――そんな気がしてならなかった。

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