第六章 視線
薬の匂いと香草の甘い風が混じる夕刻の空気のなか、ユキとフーリェンは並んで人の波を抜けていった。互いの足音が舗装石を打ち、にぎやかな声が徐々に遠のいていく。ふと、ユキの目が何かを捉えて止まった。
「……あれじゃない?」
そう言って顎を向けた先――露店が少し途切れた奥の方で、数人の獣人とヒューマンの混成の一団が、荷馬車を囲むようにして立っていた。リヴェラの医務官とおぼしき者の姿もある。薬箱を抱えて何やら帳簿を確認している女、荷をほどいている男、その隣にはしっかりとした体格の護衛兵たちの姿も見えた。
ユキはフーリェンに目配せしながら、迷うことなくその一団に近づいていった。人の隙間を縫うように進む彼女に、フーリェンが自然に続く。
「すみません」
ユキは、落ち着いた声で近くにいた護衛の男に声をかけた。
「フェルディナ王国、医務局から来たユキと申します。リヴェラ代表の方に、お取次ぎいただけますか?」
護衛は軽く片眉を上げたが、すぐに頷いた。
「少々お待ちください」
男が奥へと声をかけると、薬箱の影から、すらりとした姿の女性が現れた。しなやかな黒髪を後ろで束ね、深紅の装飾が入った医務官のローブを纏うその女性は、二人よりもやや年上に見える。その背筋の伸びた姿からは、長年の現場経験と落ち着いた品格がにじんでいた。女性はユキの姿を認めると、小さく目を見開き、すぐに歩み寄って深く頭を下げた。
「お会いできて光栄です。ご連絡が遅れてしまい、申し訳ありません」
その声に、丁寧さと誠意が滲んでいた。
「どうぞ顔を上げてください」
ユキは柔らかく微笑みながら応じた。
「無事に到着されていたようで安心しました。何か……あったんですか?」
女性――リヴェラ側代表の医務官、リリスは、苦笑を浮かべて頷いた。
「実は、道中で賊の襲撃に遭いまして」
その言葉に、フーリェンの目がわずかに鋭くなる。しかし彼女の語調に動揺や誇張はなく、淡々と状況を説明し始めた。
「幸いにも護衛の兵士たちが素早く対処してくれましたので、大きな被害はありませんでした。ただ、騒ぎの中でいくつかの試薬が破損してしまいまして……本当に申し訳ない」
そう言って、肩を少しだけ落とす彼女に、ユキは穏やかに首を振った。
「命に別状がなかっただけで、十分です。試薬の損失は確かに惜しいですけど、それより、こうして無事に会えたことのほうが大切ですよ」
リリスは少し安堵したように息を吐いた。
「……ありがとうございます。もう少し早く着いていれば、今日中に取引の一部も進められたのですが……」
彼女はちらりと空を見上げた。陽はもう傾き、空は群青色に染まりつつある。
「いえ、お互いに疲れもありますし、準備を整えてから落ち着いて始めた方がいいです。取引は、明日にしましょう」
ユキが即座に提案すると、リリスはふっと笑みを浮かべ、頷いた。
「助かります。それでは、明朝、改めてお伺いします」
「こちらも準備を整えておきます」
挨拶を交わすふたりの間に、穏やかな信頼の空気が流れていた。その傍らでフーリェンは黙したまま周囲を観察し、彼女の仕草、周囲の兵士の緊張度、馬車の積荷――それらすべてに異常がないかを静かに確認していた。
異常はない。だが、注意は必要。
そんな判断を胸に留め、フーリェンはユキとともにその場を離れていった。
空がすっかり茜色に染まる頃、二人は一度仮設の宿営地へと戻っていた。交易場から少し離れた場所に設けられた簡易の陣営には、既に荷を降ろした馬車が並び、医務官たちが道具や薬箱の整頓に取りかかっていた。焚き火の火が小さく揺れ、その周囲では兵士たちが交代で見張りに立っている。まだ肌寒さの残る風が、白狐の尾をふわりと揺らした。
「ん、疲れた……」
ユキが丸太椅子に腰を下ろし、肩をぐるりと回す。
「立ちっぱなしだったし、久々に人混み歩いたから腰にくるわ……あんたは平気?」
「……うん」
短く返すフーリェンの声に、ユキはくすりと笑った。
「そういうとこ、変わらないわよね。疲れてても顔に出さない」
「習慣みたいなもの」
フーリェンもまたユキの隣に腰を下ろし、焚き火の火を見つめた。火は静かに燃え、炭の中で小さく音を立ててはじける。遠くでは、兵士の一人が点呼の声を上げ、返事が順に響いていく。
――平和だ。少なくとも、今は。
そんな静けさのなか、フーリェンはふと視線を落とした。
「……さっきの、代表の女医。何か引っかからなかった?」
フーリェンの問いに、ユキは隣で首を傾げる。
「んー……特には。丁寧だったし、説明も無理なところはなかった気がするけど」
「……うん。僕もそう思う」
だけど…、とフーリェンは焚き火に照らされた足元の土を見つめたまま、ぽつりと続けた。
「賊の方が気になる。……何を狙って襲ったのか。あと、駄目になったっていう“試薬”の内容」
ユキの眉がわずかに動いた。
「たまたま通りかかった一団を狙っただけかもしれないじゃない?」
「かもしれない。けど、それなら“何を壊されたのか”の説明がもう少し詳しく出る…と思う……」
「……確かに、そうね。妙にあっさりしてたかも」
「それがもし、重要な試薬や記録だったら、警戒すべきはむしろ“そっち”だ」
焚き火の火がぱちりと音を立てる。フーリェンの影が地面に長く揺れていた。
「たまたま襲ったのか。それとも、最初からこの交易隊を狙って動いていたのか…」
ユキは腕を組み、火を見つめたまましばらく黙った。
「……わかった。明日、リリスさんに試薬の内容、聞いてみる。あんたは周囲の様子、お願い」
「了解」
ごく自然なやり取りだが、そこには護衛と医務官以上の、積み重ねた信頼があった。
⋆⋆
夜は深まり、あたり一面が静寂に包まれていた。風が草を撫でる音と、時折、獣たちの遠吠えが谷に響く。空には雲が流れ、月はその合間からぼんやりと顔を覗かせていた。
フーリェンは、陣営の外れ――見張り台が設けられた木立の手前に立ち、風の流れに耳を澄ませていた。
焚き火の明かりが届かない場所、獣人の夜目だからこそ見えるものがある。
何かがおかしい。
それは、気配だった。空気の流れにほんのわずか混じった「人間の熱」。風下の茂みの先、まるでこちらを“測る”ように留まっている。フーリェンはその方向を、視線だけで追った。動かない。姿は見えない。だが、確かに「そこにいる」。
――監視か、それとも……。
剣に手をかけることも、音を立てることもせず、フーリェンはただ静かにその“視線”を受け止めた。そして数秒後、風と共に、まるで最初から何もなかったかのように気配はすっと消える。
「……深追いするな、か」
ルカの言葉が、脳裏に浮かんだ。
フーリェンはルカの言葉通り、剣を抜かず、足も動かさなかった。だが、無防備にはならない。今夜の“違和感”を、ただの気のせいで終わらせるつもりもない。
彼は静かに身を翻し、宿営地の見張りに立つ兵士の一人に近づいた。薪を積み直していた若い兵が振り返り、驚いた顔をする。
「――隊長、何か?」
「……風下の茂みに注意しておけ。視線を感じた。今は離れたが、念のため」
低く短く、それだけを告げる。兵士は背筋を伸ばし、表情を引き締めて頷いた。
「はっ」
その反応に満足げに頷くと、フーリェンは再び影の中へと溶け込んでいった。夜は、何も語らない。だが、沈黙の奥には必ず意図がある。
――明日、取引の場で、その“意図”の正体が明らかになるかもしれない。
フーリェンは白狐の尾を一度風に揺らしながら、見えない夜の輪郭を睨んでいた。