第六章 追懐
日が西へ傾き始めた頃――
交易場に並ぶ荷の整理と初期の展示を終えたユキは、最後のチェックを済ませると帳簿を閉じ、医務官の一人に帳簿と配置の確認を任せた。
「現場はひとまずお願い。私とフーで、リヴェラ側の代表者を探してくるわ」
「了解しました。荷物の扱いと交渉品の整理は予定通り進めておきます」
医務官の律儀な返答に軽く頷くと、ユキは踵を返す。
「行くわよ、フー」
名を呼ばれたフーリェンは、無言で頷いて彼女の後ろについた。その白い尾がふわりと揺れ、朝とはまた違う色に染まり始めた陽の下で柔らかく光った。
二人は交易場の中心部へ向かって歩き始めた。そこは、医薬品だけでなく、リヴェラ産の様々な物品が並ぶ活気に満ちた場所だった。薬草の束、乾燥させた果実、香り高い油の瓶、彩り豊かな保存食――。鮮やかな色布で囲まれた店が軒を連ね、商人たちが声を張り上げていた。
「しかし人が多いわね…。フェルディナの西部とは大違い」
ユキがぽつりと漏らすと、フーリェンは小さく頷いた。
「人が少ないぶん、こういう場所に集中するのかも」
「それもあるし……たぶん、リヴェラとしても“見せ場”なのよ。医薬品は彼らの誇りだから」
そんな会話を交わしながら、二人は人混みの中を進む。
すれ違う者たちのなかには、明らかにリヴェラの医務官とわかる者もいた。深い藍色のローブに金糸の刺繍。胸元には階級章と、薬瓶を模した小さな飾り。その隣には、護衛とおぼしき獣人たちの姿もあった。
耳や尾を隠さず歩いている者、露骨な警戒を見せる者――それぞれが主の傍を離れずに歩いている。
(……自分も、今はああ見えてるのか)
そんなことを一瞬思いながら、フーリェンは周囲の匂いに鼻を利かせていた。交易場特有の混ざり合った香り――薬草、乾燥肉、焚き火の煙。だが、その中に、ひときわ懐かしく、そして微かに刺さる匂いがあった。ふと、フーリェンの足が止まる。その気配に気づいたユキも立ち止まり、視線で問いかける。
フーリェンは何も言わず、視線を辿っていった。香りの源は――露店のひとつ。小さな卓上に並べられた、十数種の携帯薬。ガラス瓶と木製の小瓶、革包み。どれも用途が違う。その中に、鼻をくすぐる、あまりにも馴染みのある香りがあった。
ユキが視線の先を追い、ふっと笑う。
「行ってみる?」
「……うん」
二人は、露店へと足を向けた。リヴェラの交易商人と思しき男が、数人の客に愛想よく話しかけていたが、二人が近づくとすっと気配を整えた。
「おや、お客様。新しい処方薬にご興味を?」
「少し見せてもらっても?」
「ええ、どうぞどうぞ」
ユキはふと、フーリェンが注目していた小瓶に手を伸ばす。やや厚みのあるガラス瓶。透明な液体に、微かに金属のようなにおい。ラベルには、簡素な印字とリヴェラの紋章。
「ああ……」
ユキが、ぽつりと小さく呟いた。そんな彼女に、フーリェンが視線を向ける。
「……なんの薬?」
ユキは瓶をひょいと持ち上げ、ひとつ息をついた。
「……あんたが、昔よく飲んでたやつよ」
「……え?」
フーリェンは、瓶を覗き込む。匂いは――懐かしい。けれど、見た目は少し違っていた。自分が知っているものよりも、瓶の形状もラベルも、わずかに新しい。彼は無言で瓶を受け取り、すこしだけ鼻先に近づける。
それは、「能力の抑制剤」だった。
かつて、まだ感情の制御もままならなかった頃。力が暴走しないように、誰にも害を与えないように、日々口にしていた液体。今はもう常用はしていないが、非常時に備えて、腰のポーチに小瓶を一本だけ忍ばせている。
だが、この瓶は――微かに匂いが違う。
ユキがそれに気づき、店主に声をかけた。
「これ、成分……変わってる?」
「ええ、実は。従来品に比べて、少し抗力を強めてありまして」
商人は、にこりと微笑んで答える。
「以前の処方だと、強い能力を持つ子には効果が薄いという報告がありましたので。そのため、今年から調整を入れています。より深部への作用、持続時間の延長も。特に能力を発言したばかりの家庭には好評ですよ」
「……なるほどね」
ユキは視線を落としながら呟く。フーリェンの視線もまた、瓶の奥――自分の過去の、あの沈んだ日々へと一瞬だけ降りていた。静かに、白い尾が揺れる。かつて頼りにしていたものが、いま目の前で“進化”して売られているという現実。それが、単なる医療の進歩なのか。それとも、別の「目的」――誰かを抑え込むための道具なのか。
「せっかくだし、一つ買っておこうかしら」
そう言ってユキは、さっきの能力抑制剤の瓶を一つ選び、露店の商人に代金を支払った。交易用の小袋から硬貨を渡し、手慣れた所作で薬瓶を革製の小包に収めると、それを懐の袋にしまい込む。
「研究のためでもあるしね。こういう“変化”は、現場の医務官としてちゃんと把握しておきたいし」
そう言って小さく笑ったユキに、フーリェンは何も言わず頷いた。再び二人は人混みの中を進み始める。ひとしきり活気を過ぎると、周囲の喧騒もいくらか落ち着いてくる。午後の光が屋根の布を透かし、仄かな影が地面に落ちていた。その静けさの中で、ユキがふと口を開いた。
「そういえば、……すっかり飲まなくてよくなったわね。あの薬」
フーリェンは少しだけ目を細め、前を向いたまま答えた。
「……うん。もう、自分でコントロールできるようになったから」
その声は、どこか柔らかく、懐かしさを含んでいた。遠い記憶を引き寄せるような、心の奥にそっと灯る炎のような。
「昔は、夜も一人じゃ眠れなかったくせに」
「……言わないで」
フーリェンが少し眉を寄せたのに、ユキはくすくすと笑った。その仕草には、過去をともに過ごした者にしか許されない距離感があった。
「でも、ほんとに変わったわね。あの頃は、力を押さえ込むだけで精一杯だったのに。今は、あんたが誰かに手を差し出す側になってる」
「……?」
どこかピンときていないフーリェンの様子に、ユキは続けて言葉を紡ぐ。
「アンナ。最近、あの子の名を軍の報告書でよく見るの」
フーリェンはその名前を聞くと少し歩を緩め、そっと小さく息を吐いた。
「……重力操作の能力。潜在値は高いけど、制御は難しい」
「でしょうね。書面じゃ判断しにくいけど、実際は相当扱いにくい力だと思うわ」
ユキが少しだけ口をすぼめて考えるような表情を浮かべた。その言葉に、フーリェンはしばし黙ってから口を開いた。
「……王国軍に入るには、事前の調査と、簡単な技能テストがあるだろ。アンナも例外じゃなかった」
曖昧に笑うでもなく、淡々と、それでいてどこか思い返すような声音だった。
「でも、あの子……その場で自分の能力をうまく扱えなくて。結果、周りの資料も、器具も、全部歪ませて――それを見てた他の受験者たちに避けられて」
「……で、泣きそうになってた?」
「耳も尻尾も垂らして、半分泣いてたな。誰にも声をかけられず、でも退出もできなくて。完全に足がすくんでた」
フーリェンはふっと目を伏せて、小さく息を吐いた。
「見ていられなかった。ただ、それだけ」
「拾ったわけじゃないんだ」
ユキの言葉に、フーリェンはゆっくり首を振った。
「“拾った”って言うのは、どこか一方的に思えて、違う気がする。……気になったから、僕の隊に入ってもらった。それだけ」
「……ふーん。フーらしいわね」
ユキは穏やかに笑い、歩調をフーリェンに合わせて一歩足を進めた。そしてふと、彼の横顔を盗み見る。
強くなった――そう思う。過去の自分を乗り越えた者にしか持ちえない、まなざしと、言葉。
「アンナ、ちゃんとついてきてる?」
「……まだ、自信はないみたい。けど、目だけは諦めてない。この前の野営戦も、頑張ってた」
「なら、きっと大丈夫よ。いずれ、フーと同じ道を辿っていくわ」
ユキのその言葉に、フーリェンは少しだけ、口元を緩めた。けれどその笑みは、すぐにふっと影を落とす。なにかを思い出したように、歩きながら空を仰ぐ。
「……大丈夫になるためには、結構時間がかかったけどね」
ぽつりと落ちたその言葉に、ユキがふとフーリェンの横顔を見やる。
「あんた、そういえば……あの頃、ほんとに人と話せなかったわね」
「……まぁ」
頷いたフーリェンの声は、どこか遠くを見ているようだった。
「能力をコントロールできるようになって、兄離れもしなきゃいけなくなって。……その時、ルカ様に言われたんだ。“まずは誰かと寝食を共にしてみなさい”って」
「それで配属されたのが――私ね」
ユキが肩をすくめるように笑い、懐かしげに鼻を鳴らした。
「母様の推薦だったっけね。どうせなら年の近い方が打ち解けやすいだろうって」
「……おっかなびっくりだった」
「うん、知ってた。ずーっと警戒してたしね。目は合わさない、距離は取る、尻尾はぴくぴく動いてる」
ユキは思い出し笑いを隠さず、口元を綻ばせた。
「でも、ごはんの時だけは真剣だった」
「ユキの作るご飯……妙に、味がしっかりしてて。……食べ慣れてなかったから、衝撃だった」
「は? それ褒めてる?」
「褒めてる。美味かった」
フーリェンの素直な声に、ユキはほんの一瞬だけ驚いたような顔をして、それからふっと表情を和らげた。まるで、遠くに置いてきたはずの“少年”が、一瞬だけ隣に戻ってきたかのようだった。
「夜も、最初はまったく眠れなかったな……」
「うん。こっちが寝そうになると、“起きてるか”って聞いてきたもん。五回ぐらい」
「……話しかけてくれたから、落ち着いた」
「あれが“落ち着いてた”状態だったの?」
フーリェンは苦笑いのような、けれどどこか照れ隠しの気配を残した声で、静かに答えた。
「……そうだよ」
そんな風に言えるようになったことすら、変化だとユキは思った。かつて、何を言っても目を伏せていた少年が、いま隣で歩いている。あの頃と同じ白い尾を揺らしながら、それでも胸を張って、人の前に立つようになった。
「……変わったわよね、ほんとに」
「そういわれると、……なんか照れる」
「いいの。私はずっと見てたから言えるのよ」
言葉に、誇りと親しみがあった。そして二人の歩みは再び、人混みの中へと溶け込んでいった。