第六章 西へ
そんな訓練場でのひと時から、一週間後。
王宮の南門――朝靄の残る石畳の上には、馬車の車輪が並び、木箱が運ばれ、布で覆われた荷が積み上げられていた。医薬品、交易品、研究資料。そして、それらを護衛する兵士と医務官たちの姿もちらほらと見える。その中心で、指示を飛ばしているのは、灰銀の髪を揺らしたユキだった。
「馬車の重量、左が少し偏ってる。積み直して」
「薬箱にはちゃんと刻印を。西の境界を越えると検閲が厳しくなるから、印を見せればすぐ通れるように」
的確で、無駄のない指示。澄んだ声が飛ぶたびに、兵士たちは無言で頷き、素早く動いた。白衣の上から羽織った灰の外套が風に揺れる。秋の陰を匂わせる朝の冷気に晒されたその姿は、誰よりも冷静で、誰よりも速い。
そんな彼女のもとに、一つの影が近づいた。白の毛並みと琥珀色の瞳を真っ直ぐに彼女に向けながら歩くフーリェンは、いつもの白の隊服に、細く長い尾が揺れている。耳をぴんと立てたその姿は、明らかに“護衛”としての意志を帯びていた。
それに気づいたユキは、目も向けずに言った。
「……遅い」
「ごめん。…ルカ様に、出発の報告をしてきた」
フーリェンは少し息を弾ませながら、静かに言った。いつも通りの無表情のはずだったが、どこか耳の動きが落ち着かない。
ユキはようやく顔を上げ、ちらりと彼を見た。
「ふうん、ルカ様に? 護衛の出発なんて、報告すれば即終わりのはずなんだけど」
「……ついでに少し、話もしてた」
「真面目なのね、あいかわらず」
くす、とユキが小さく笑った。馬車の積み荷を確認する医務官の一人に目配せしつつ、ユキはフーリェンに近づく。
「でも、こうして隊服を着て耳も尾も隠さないで同行するなんて……ちゃんと“正式な護衛”として出るの、珍しいんじゃない?」
「うん。交易に同行するのは……実は初めて」
ぽつりと、フーリェンが言った。尾の先がすこし揺れるのを、ユキは目を細めて見つめた。
「そっか。なら――楽しみね?」
「……楽しい、の?」
「ええ。いろいろあるけど、案外楽しいのよ」
ユキは医務官としての表情は崩さず、それでも口調だけはどこか明るく言った。
「リヴェラの医師たちって、独自の方法で薬を調合したり、技術を隠したり、妙に競争心が強かったりして……でも、それが逆におもしろいの」
「競争心、か」
「ええ。なにせ彼ら、自分たちの薬こそ最高だって、誇りを持っているから」
それに――と、ユキは視線を遠くに向ける。
「今回は新しい薬がいくつか試験的に交換される予定になってる。毒性が低くて即効性がある解熱剤とか、筋肉の疲労を早く回復させる軟膏とか。……正直、気になるの。かなり」
それを聞いていたフーリェンは、ほんの少し口元を引いた。安堵とも苦笑とも取れる、わずかな表情の緩み。
「……あいかわらずだね、ユキは」
「なにが?」
「薬の話になると、ちょっと目が光る」
「当然でしょ。私、医務官だもの」
ユキはきっぱりと、誇らしげに言い放った。その真っ直ぐさが少し眩しくて、フーリェンはふと視線を逸らす。だがその瞳の奥には、ほんの少しだけ、別の色が滲んでいた。
――交易と表向きの調査、その裏にある偵察。
もし、本当にリヴェラが異形化や軍事薬品の開発に関与しているならば、今回の旅はただの“往復”では済まないかもしれない。
楽しい、と言うユキにすべてを伝えることはできない。彼女の領分は医療と交渉、フーの領分は影と情報収集。交わらぬ役割が、いま一つの任務として結ばれているだけだ。
「……」
少しだけ困ったように、フーリェンは小さく吐息をついた。
「……あまり、浮かれて怪我とか、しないようにね」
「私が?そんなミス、すると思う?」
「……いや、思わないけど」
「でしょ」
ユキはさらりと笑い、荷馬車の方へ歩き出した。
その背を見送りながら、フーリェンはそっと指先で隊服の襟を正した。この身は、護衛であり、探り手でもある。任務の重みとともに、今はただ静かに歩みを始める。
王都フェルディナを発った一行は、ゆるやかな山道を南西へと進んでいた。
夏の余韻を残しながらも、風はすでに秋の気配を帯びている。舗装された王都の道を離れると、土と草の匂いが混じる未舗装の街道が続いた。荷車の車輪ががたがたと音を立て、時折、馬が鼻を鳴らす。
護衛の兵士たちは徒歩でそれぞれの位置を取り、馬車の周囲を固めていた。医務官たちはほとんどが馬車に乗っており、ゆらゆらと揺られながら箱の中身を確認したり、帳簿に目を落としたりしている。
そのなかでも、先頭に近い馬車のひとつ――灰の布で覆われた荷馬車の傍を、フーリェンは静かに歩いていた。白狐の毛並みに陽があたり、柔らかく光る。
「歩き疲れないの?」
のれんを半分捲ったユキが、馬車の中から顔を出す。
フーリェンはちらりと横目をやると、小さく首を振った。
「これくらいなら、全然。……護衛は、乗らない方が都合がいいし」
「荷馬車に慣れてないだけじゃなくて?」
「それも、ある」
素直な返答に、ユキは少し笑った。肩肘張らないこの狐の青年との会話には、不思議と肩の力が抜ける。フーリェンの歩調は常に一定だった。馬車の速度に合わせて少しずつ変えはするが、決して急がず、決して遅れない。その尾が風を受けてなびく様子に、時折ほかの医務官たちもちらりと視線を向けていた。それも無理はない。第四王子直属の護衛であるフーリェンが、こうして表に姿を晒して王子以外の護衛の任務に就くのは珍しく、そして何より、その美しい容姿も相まってその場の雰囲気を僅かに変える。
「……いい天気ね。ずっとこのままだといいのに」
ユキが馬車の縁に肘をかけ、瞳を細めて空を見上げる。淡い銀髪が陽に透け、まるで水の中にいるようにきらめいた。
「昼間はね。でも、夜は冷えるよ」
「そうね。毛布はもう一枚持ってきたほうがよかったかしら」
「今夜は、荷箱の奥に巻いてある布を一枚分けようか? 今のところは予備扱いだから」
「気が利くのね。じゃあ、そうしようかしら」
旅路の最中、互いの声は自然と穏やかな調子になる。戦場でも王宮でもない、風と道と揺れる草に包まれた空間は、不思議と人の緊張をほぐすのかもしれない。
「フー」
ふいに、ユキが呼ぶ。
「……西に行くのは、久しぶり?」
「……そうだね。前に任務で行った時はまだ雪が積もっていたから……半年ぶりくらい、かな。」
あと…、とフーリェンは続ける。
「こうして医務官と一緒に行動するのも初めてだから、……ちょっと、心配」
「そうなの? でも、今のところいい調子よ。ちゃんとみんな安心してるもの」
「……僕は黙って歩いてるだけだよ」
「それが大事なの。安心して進める、ってすごく大切」
フーリェンはその言葉に、ほんのわずかだけ目を細めた。“安心”というものを得た記憶が、自分にどれほどあるだろうかと、ふと思う。奴隷だった頃も、護衛として生きるようになってからも、常に背後を気にして歩いてきた。けれど、こうして穏やかに、誰かと言葉を交わしながら旅をする――そんな時間が、自分にも許されるようになったことが、少し不思議だった。
「……あまり、気を抜かないようにするよ」
「うん、お願い。私は薬と資料で手一杯だから」
ユキは再び、のれんの奥に姿を引っ込めた。その気配が消えると、フーリェンは小さく息を吐いた。
表向きは交易、実質は偵察任務。
リヴェラ王国の医術と薬品開発――それが果たして、本当に人を救うためのものか、それとも他国に兵器を流すためのものか。今回の旅は、その真実を見極める鍵になる。
フーリェンの耳が風に揺れた。
遠くで、鳥が群れをなして飛んでいく。その羽音を聞きながら、彼は思った。
(……楽しい旅になればいい。でも、もしも何かあった時は――)
この目で、それを見届けねばならない。